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 2008年03月 

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ハルマッタンで視界不良 

2008年3月29日 ハルマッタンで視界不良のセネガル西部を走り抜け、首都ダカールに到着しました。

 ダカールは想像以上の大都会でした。空気中の埃が酷くて、目が痛い・・・。これは排気ガスが原因ではなく、ここ2日の激しいハルマッタンのためです。

 ハルマッタンとは、サハラから吹く季節風。このサハラの南西のこのあたりでは、1~3月がハルマッタンの時期です。数日前から、強い北寄りの風が砂埃を運んで来ていて、この2日間は全てが酷く霞んでいます。地平線は砂埃であいまいになり、太陽は赤く染まることなく、淀んだ空気の中に消えていきます。

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写真)霞んだ地平線に並ぶバオバブの巨木

 ダカールの南80kmぐらいのところに、セネガルのコート・ダ・ジュールと称される、美しいビーチリゾートがあるのですが、そのあたりを通過した時は、風も霞みも一番酷かったので、海辺に出ることなく通り過ぎました。

 で、今日も霞がありましたが、ダカール中心部に着いてからは、それほど霞は感じなくなりました。宿の周囲には高層ビル(10~20階!)が林立していて、もともと遠くは見えないのです。20階建てのビルなんて・・・、凄い!ダカール!!

 ここまでの道のりで負ったストレスを、この大都会で解消したいと思います。といっても、お金ないから・・・。のんびりするだけですが。
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土俵際・・・ 

2008年3月27日 昨晩、とんでもないことがありました・・・

 泊まっていた宿の部屋で、泥棒被害に遭いました。失ったのは、現金や非常ぉ~に大事な仕事道具2点・・・。犯人は、同室のアンゴラ人を名乗る男でした。わずか数分の間に、盗まれ、逃亡されてしまいました。


 詳細はまた今度紹介します。昨日の今日で、あまり多くを書きたくないです。


 旅にトラブルがつき物。これまでも多くのトラブルを体験してきました。盗難は何度もありますし、強盗の被害もある。爆発音や銃声の中を歩いていたこともありますし、無一文で街をさ迷ったこともあった。怪我に苦しめば、病魔に苦しめられたこともあった・・・。でも、私はまだ旅に熱い情熱を持っています。
 困難は人を強くします。私の青年期はほとんど旅に費やされています。今年30歳の私はまだまだ青二才、心の成長期です。旅の中で数々の困難と遭遇し、それらを乗り越えることは、私の趣味であり、修行みたいなもんです。

 自分で言うのもなんですが、
 私、土俵際に強いんですよ!!



 ここ1ヶ月、マラリア克服後に体調が完全に戻りきらず、肉体的にも精神的にもちょっと低迷していました。そこに盗難被害です・・・。いよいよ、土俵際まできました・・・


 さぁ・・・、ここから!!
 得意の『打っちゃり』で大逆転します!!


 最終的には、14勝1敗で敢闘賞・技能賞・殊勲賞を狙います。優勝はしなくていいや、誰かと競ってるわけじゃないから。

カオラック着! とにかく黙々と走ってきました・・・ 

2008年3月25日 セネガル西部、大西洋岸まであと150kmぐらいのカオラックに到着しました。

 24日にタンバクンダを出て、2日間の走行で282km(150km+132km)も走って来ました。こんな強行軍、アフリカ入り後初めです。

 3日間で110km・100km・70km、という計算だったのですが、訳あってスっ飛ばしてきました。訳とは・・・。マリの田舎でもそうでしたが、セネガルの田舎でも、田舎の人たちから嬉しくない言葉をかけられるんです。それ、前から好きではなかったんですが、最近では酷く気に障るんですよね・・・。 

 Toubabou, donnez-moi le cadeau!?
 
 私の耳には、「トゥバブ!ドネモ・レ・カド!?」と聞こえます。意味は・・・、

 白人!贈り物ちょうだい!! =お金ちょうだい!

 村人が私の姿を認めた次の瞬間、この言葉が飛び出します。ボンジュール(こんにちは)よりも、サバ?(ご機嫌いかが?)よりも、何よりも先に、「何かくれ!!」(≒お金くれ!)ですよ? 
 酷い時は、「カド!カド!カド!」と連呼するのみ。出会って最初の言葉が、「くれ!くれ!くれ!」(主語は”贈り物”、或いは“お金”)という訳です・・・。

 ※カドの正確な意味は、“贈り物”ですが、“お金”とほぼ同じ意味で使われているように感じられます。実際、何が欲しいか尋ねると、出てくる言葉は「100フラン」とか「1000フラン」です・・・。

 田舎の人が全員そうという訳ではありません。が、子供の7割ぐらい、成人女性(青年~老年)の6割くらい、青年男性の2割くらい、が「金!金!金!」です。数人村人が集まっている前を私が通ると、誰かが「カド!」と叫び、時にはその場の人々全員での大合唱に発展します。

 きっと、彼らには、私の顔がセーファー・フランのコインに見えるのでしょう・・・。立派な500フラン・コイン(約120円)かな? 磨り減った50フラン・コインかな・・・?

 欲しがるのはお金だけではありません。「ボトルくれ!」、「服くれ!」、「食べ物くれ!」、「水くれ!」(まぁこれは場所によっては正当な欲求です)。極めつけは、「自転車くれ!」 田舎の村にはモノがないんです。それをしっかりと理解しているつもりですが、最後の言葉はいただけない!私、地球上で一番嫌いな人間が、自転車泥棒。刑法を改正して、自転車泥棒は重罪に処すべきです。自転車泥棒の次に嫌いなのが、私の相棒・自右衛門を欲しがる人。それだけ私の相棒が魅力的なんだということでしょうけども、私たちを引き離すことは犯罪も同じです。

 ん?話が逸れたかな?どうも熱くなりやすいですね・・・。ほんと、自転車泥棒は最低最悪の大犯罪ですよ!私の友人で、自転車を盗んだ経験のある方は、絶対に黙っておいて下さい。友情にヒビが入る可能性台ですから・・・。

 本来、外国人が滅多に訪れない田舎での地元民との交流は、旅の楽しみのひとつです。が、今の私にとっては、その交流が楽しくない・・・。フランス語が話せたら、また違った交流もできるんでしょうけど、私のフランス語は現地の小学生以下のレベル。そもそも、第一声が「金くれ!」という人と、その後どうやって接したものか・・・?? 

子供「トゥバブ!カネ!カネ!カネ!カネちょうだい!カネ!」
心 「カネぇ~!? お前にやる金はない!! とっとと、失せろ!」

 彼らの絶叫に負けない怒号で一蹴!!です。

 そんなこんなで、村での停車を避け、黙々と走り続けてきた結果が、2日間で282kmだったのです。いけませんね、今の私の状態・・・。セネガルの首都ダカールまでは、あと190km、2日の走行です。アフリカ大陸最西端の地で大西洋と出会ったら、心持ちも変わるかも知れませんね。

 穏やかな心を取り戻さねばなりません。気分転換が必要です、今の私。

 カオラックではのんびり2泊します。

丹波君だ! 

2008年3月20日 セネガル東部の町タンバクンダに到着しました。

 マリ西端の町・カイでは4泊しました。原稿仕事をしていたのですが、先方の都合もあり、無駄な仕事になってしまいました・・・。で、カイを発ったのが18日のこと。マリのビザが切れる、その日です!

 カイから国境まで95kmを激走し、18日午後にはセネガルに入国しました。この旅で・・・何カ国目だ?25カ国目?まぁ、それぐらい目です。マリで丸3ヶ月を過ごしたので、まだアフリカ2ヶ国目です。

 セネガルに入国して、初めの印象『モノが多い!』。商店にモノが多いんです。国境の小さな町、その後の小さな村の売店に、沢山モノがあるんです。セネガルはマリよりも、いくらか発展している国で、ここいらでは一番進んだ国。小さな村の商店に冷蔵庫があって、コカコーラがキンキンに冷えていたのには驚きました。

 セネガルには、あと2週間ほど滞在します。モノが多いからって、散財しないように気をつけなきゃな・・・

哀れな動物・・・ 

2008年2月1日 私は、これほど“哀れな”という形容詞が似合う動物を他には知りません。

 トンブクトゥのマルシェ(市場)をヤラヤラ(土地の言葉でブラブラ歩き)していた時のこと。目の前に積み上げてあった、藁の塊が急に動きました。

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写真1)左手の藁の塊が動くんです。

 何も驚くような光景ではありませんでした。私、このような光景はこれまでに何度も何度も目にしています。中国の西域でも、中央アジアでも、西アジアでも、南アジアでも、アフリカでも、これに似たような光景はよく目にします。何だと思います?この動く藁の塊。

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写真2)ヒント・・・ 藁の塊の中心には、こんなモノがいます。

 もうお解かりですよね?ロバです。この動く藁の塊は、大量の藁を背負わされたロバです。

 ロバ・・・、哀れな動物。ロバほど、“哀れな”という形容詞が似合う動物はないでしょう。


 大きな頭のわりに、小さな体。背の丈は、人間よりも低く、足の長さも人間の大人より短い。ずんぐりした体を覆う灰色の短い毛。大きな目は、いつも物悲しげで、どこを見ているのか解からない。いつも少し俯き気味に、頭を垂れている。 
 その小さな体には、人間が跨ることもあれば、レンガの山を積まれることもある。水を満たした水瓶が載ることもあれば、体の数倍の大きさの藁の山に包まれることもある。重たい荷物を載せられた時の小刻みな足の運びは、応援したくなるぐらい一生懸命。主人に鞭や棒切れで背中を叩かれる時の辛そうな目は、強く私の心を打ちます。

 黙々と働くロバさんは、とにかく耐えます。キツイ労働に耐え、主人の鞭に耐え、暑さに耐え、喉の乾きに耐え・・・。その忍耐力は、頑なさ・頑固さの裏返しでもあります。主人の鞭に耐えるロバさんは、無言で抵抗しているのです。重たい荷物に4本の足をプルプルさせているロバさんは、無言で抵抗しているのです。 

 嗚呼・・・、なんて哀れな生き物なんだろう・・・、ロバさん。

 あなたの身近にロバはいますか?日本でも、行くとこに行けばロバぐらいいますよね。牧場とか、動物園とか。でも、家でロバを飼っているという人は稀でしょう。
 ロバの鳴き声って知ってますか?これまた“哀れな”泣きっぷりなんです。マリの田舎の村、夜の帳が下りた頃、群青色の空に木霊するロバの鳴き声・・・

 「オアー・・・・、ッヒ!! オアー・・・、ッヒ! オアー、オアー・・・・」

 聞いたことありませんか?鳴き声というか、嘶きですね。ロバの嘶きは、昼間の労働の苦しみを嘆いているようにすら感じられます。とても、哀れな嘶きです。ロバの鳴き声を聞いたことがないのなら、ぜひとも、ロバの鳴き声を聞きに行ってみて下さい。動物園のロバの囲いの前のベンチで、丸1日座っていたら聞けるかも知れませよ。


 哀れなロバさん、頑固なロバさん、変な鳴き声のロバさん。そんなロバさんですが、私は大好きです。いつか、ロバと一緒に旅をしてみたいと夢見ていたぐらいです。

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写真3)トンブクトゥ郊外の砂丘地帯。藁の山を運ぶロバの列。(妹・未来撮影)

チベットで騒乱 

2008年3月17日 3日遅れて、重大なニュースを知りました。14日に起きた“チベット騒乱”です。

 滞在中のカイ(Kayes,Mali)のネットカフェでは日本語の表示がされず、自前のPCも使えなかったので、ニュースは専ら英語のサイトから得ました。貪るように英語の文章を読み漁り・・・、初めに思ったこと。

 嗚呼、やっぱり起きてしまったか・・・

 ちょっとチベット問題に興味のある人なら、予感していたのではないでしょうか。私が旅した2006年夏のチベットには、すでに異様な空気が溢れていました。その空気は、過去50年間、常にあったものかもしれません・・・。
 2008年オリンピックイヤーに、きっと何かが起こる。私にはその予感がありました。平和的なデモ行進ぐらいで終わることを願っていましたが・・・、残念ながら暴力的なものになってしまいました。中国政府の対応も予想の通りでした。あの国の政府は、天安門事件から何か進歩してるんでしょうか・・・?

 私が中国政府のチベット政策に否定的なのは、このブログへのいくつかのエントリーで明らかのことでしょう。一部繰り返しになりますが、私が見聞きした、チベット自治区における中国中央政府の虚偽・過ちを紹介させて頂きます

→過去のエントリー 熱烈重祝?

■ 1950年の人民解放軍による侵略以降、この56~57年の間、チベットの人々が中国による支配を“熱烈重祝”したことなどあるのでしょうか・・・?もしかしたら、一部のチベット人の間にはいるのかも知れません。が、大半のチベット人が中国によるチベット支配に否定的なのは確かです。


ポタラ宮殿は、チベットの政治・宗教の中心であり続けた、チベットで最も由緒ある建物。ダライラマ14世のインド亡命を期に、中国政府の管理下に置かれました。
 そんなポタラ宮殿の正面には何があるかご存知でしょうか?幅の広い北京西路(中路だっけ?)を挟むと、大きな広場があります。そこには、国旗掲揚台があって、真っ赤な中国国旗が真っ青なチベットの空にはためいています。
 この光景、どこかで見たことがあります。どこだと思います?中国北部を旅行したことのある人なら、かなりの確率で訪れているのではないでしょうか。北京の中心、『天安門広場』ですよ。
 この広場、数年前にチベット開放50周年記念か何かの式典に合せて、急ピッチで整備されたものだそうです。式典では、何千何万という人民解放軍、チベット自治政府・中国中央政府の役人たちが立ち並んだそうです。この広場の南端、広場を挟んでポタラ宮殿を向かい合う位置には、『チベット解放記念碑』が立っています。私には、とても、寒気がする場所でした。

→過去のエントリー。このエントリーの2枚目の写真をよくご覧下さい。ポタラ宮殿を眺める


■ エベレストベースキャンプ(EBC)で出会ったチベット人青年・アジャイ。彼は、英国人登山家たちの同行ガイドとしてEBCに来ていました。前職は、警察官だそうです。そんな彼から聞いた話です。
 チベット自治区の警察官は、約8割がチベット人、2割が漢民族だそうです。単純に考えれば、警察(公安)幹部は、8割がチベット人と思われますが、もちろん、そんなことはありません。幹部の大半は、当然!漢民族。一部のチベット人幹部も、中国的教育の中で中央政府に従順になった人々ばかり。
 「出世するのは党幹部や警察幹部に伝のある人ばかり。警察の仕事には矛盾だらけだったよ・・・」アジャイは、警官を辞め、観光業に転職しました。そんな彼ですが、今の生活にも多少の困難・不安を抱えているようでした。
 →その話は新聞連載で紹介しました。
地球みちばた見聞録19話


■ ラサで出会ったチベット人青年。彼には、臨月を迎えたドイツ人の奥さんがいました。チベットを愛し、チベットに通っていたドイツ人女性は、チベット北西部アムド地方で土地のチベット人男性と恋に落ちました。
 で、田舎の町で暮らしていた彼らは、少しでも良い病院(産婦人科)を求めて、区都ラサにやって来たのでした。幸せそうな若い夫婦は、英語で会話していました。ある日、私たちがよく彼と顔を合せていたカフェで、暗い表情の彼が周囲に漢民族がいないことを確認してから、唐突に話し始めました。
 「もうすぐ子供が生まれる。子供が飛行機に乗れるようになったら、嫁と子供は、ドイツに帰すんだ。僕は配偶者として父として、ドイツに住む権利を得たわけだから、一緒にドイツに行って、向こうで新暮らしを始めるつもりなんだ。けど・・・、そこには大きな障害があって・・・。数ヶ月前、パスポートを取りに、地区の役場に行ったんだ。申請を済ませた後、係官は“この地区のチベット人へのパスポート発給業務は停止中だ”って言ったんだよ。停止する意味が解からない!!そもそも本当に停止してるのかどうかも解からない。嫌がらせ以外の何の理由も思いつかないよ。もうすぐ子供が生まれるんだよ・・・。僕は、この国から出ることができないのに。」
 彼にパスポートが発給されない理由はなんでしょう?彼の言うとおり、嫌がらせなのかもしれません。あれからもう1年半が経っています。彼が今どこで暮らしているのかは知りません。何らかの方法(当時、ヨーロッパの人権団体が援護射撃を申し出ていました)をとって、ドイツに辿り付いたのではないでしょうか・・・?そう願います。


■ 老定日の食堂宿で働く彼女は、インド亡命経験者でした。小学校から高校にあたる期間をインドのダライラマ亡命政権の学校で勉強してきました。達者な英語に加え、インドの公用語ヒンディー語も操り、中国語も話します。語学以外の学問も熱心に習得したようで、田舎町の食堂宿にはもったいないぐらいの“優秀”な人物です。
 「私たちインド帰りのチベット人が、中国政府の再教育施設に入れられることはなくなりました。帰国の際は、“中国政府に異論はありません”という旨の宣誓書を書かされるだけです。でも、私たちへの敵視は変わっていません。私たちが政府の仕事につくことは困難です。インドで得た学業の成果が、チベットの為に発揮できる公職はありません。」
 彼女は、長く離れて暮らした両親のそばで、今もあの小さな食堂宿を切り盛りしているに違いありません。

→過去のエントリーです。インド帰りのチベット人


 他にも沢山、ほんとに沢山のエピソードがあります。2001年に訪れたインド、ダラムサラ亡命政権の人々や亡命チベット人の話も含めると、相当な数になります。すべて紹介したいぐらいですが、どこまでも時間を使いそうなので、止めときます。

 中国政府による、チベットの侵略・搾取・文化侵害・自然破壊に関する情報は、ネットや書籍に溢れています。もっと知りたい方は、ご自身で探して、知って下さい。

 ご注意頂きたいのは、それらの情報全てが「正しい!」と鵜呑みにしないこと。物事を『正義と悪』、『正と誤』に分けることは危険です。悪や誤りを指摘し、自己の正当性を主張するのは、中国政府の得意とするところですよ?

中学生の演劇を見に行きました。 

2008年1月5日 ジェンネの中学生の演劇を見に行きました。

未来 「今夜、子ども達の演劇があるんだってよ。」
心 「面白そうやね、何時から?」
未来 「7時かららしい」


 昼にこんな会話がありました。子ども達って、10歳ぐらいか?15歳ぐらいか?それとも、5歳ぐらいか・・・?よく詳細はつかめてませんが、何かしらの演劇があるそうです。それほど乗り気ではありませんでしたが、特に予定もないので、行くつもりでいました。で、夜。大家さんちから戻った妹は、ちょっと慌ててました。

未来 「今から、始まるらしいよ!さっき急に、アイシャタが『今何時?えっ?7時!?私も行かなきゃ!』って、ほんと急に!」
心 「えっ?アイシャタも出ると?」
未来 「らしい。ついさっきまで、全くその気配はなかったのに、急に準備始めた。」
心 「んじゃ、行くか!」


 ほんとに急でした。アイシャタとママと私と妹で、町の公会堂(公民館?)のステージに向かいました。入り口で、ひとり1000フランの入場券を購入。ちょっと高くないかい?とも思いましたが、まぁ、いいや。
 屋外のステージの前に立つと・・・、人がいない!? 椅子が50個ほど並べられた会場には、ほとんど人がいませんでした。7時からという話でしたが・・・?7時半近いのに、これって・・・?

 『マリだから』、妹の言葉には説得力がありました。マリでのイベントや行事って、こんな感じなんです、大抵いつも。日没後は、気温が下がります。まだ演劇は始まらないだろうから、家に毛布を取りに戻ったり、外で飲み物を買って来たり、2度3度会場を出たり入ったり。
 8時を回り、少しずつ人が集まり始めました。その大半が、学生たち。アイシャタの同級生ということは、13~18歳ぐらいの学生たちでしょうか。舞台の準備をするとか?と見ていたら・・・、急に太鼓の演奏が始まりました。

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写真1)ステージ上でお喋りに興じる生徒たち。

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写真2)太鼓の演奏に合わせて、好き勝手に踊り始めた生徒たち。

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写真3)次第に人数は増えて、30人ぐらいになりました。いつまでも踊り続けています・・・。

 あの・・・、これは・・・、どういうことでしょう?

 一向に演劇が始まる気配はありません。生徒たちは、好き勝手に舞台で踊っています。しっかし・・・、その踊りの上手なこと!上手なこと!中にはもちろん下手な子もいますが、上手な子はトコトン上手!!力強く手足を振り、リズミカルに体を揺らして、笑顔で激しいステップを踏んでいます。昨年末にバマコで見学した、ダンス合宿の様子を思い出してみると・・・、ここの生徒の方が数枚上手なようです。日本やヨーロッパからやって来たダンサーさんたちには悪いのですが、これが正直な感想です。マリ人が持って生まれたセンスは凄い!
 
 観客席の最前列に陣取った、私と未来とママ。私は生徒たちの写真撮影で暇を潰しますが、未来とママは退屈そう・・・。生徒たちは、まだステージで踊っていました。
 「もう、帰る。ここで風邪でも引いたらバカバカしい・・・。」急に、未来が帰ると言い出し、本当に帰ってしまいました。ママも連れて帰ろうとしますが、ママは拒否しました。で、私とママだけが残されました。ママはまだ小学校1年生、フランス語を話すわけもなく、私との意思疎通は一切図れません。
 ママは未来が家から持ってきた毛布に包まって、小さくなっていました。私は長袖の上に、ターバンを広げて上半身を覆っていましたが、それでも徐々に肌寒くなってきました。 『どうしよっかなぁ~・・・?ダンスもソコソコ楽しめたし、もう帰りたいなぁ・・・』

心 「ママ、家に帰る?」
ママ「ハ?」
心 「ココ、メゾン。ママ、メゾン?」 (ココは、私のニックネーム。メゾンは、フランス語で家。)
ママ「ハ?」


 私の言葉に返ってくるのは、ママの子羊のような短くて甲高い声・・・。全く通じていません。隣に座っていた男性に、アラビア語で「私は家に帰る。この子も家に帰る。」と告げました。ジェンネには、アラビア語を解する人が多いのです。でも、このおじさんはアラビア語を解さなかったようで・・・、やはり通じず。仕方ない・・・。ママは置いて帰るか。未来が言うには、「ママを残してきても大丈夫。」とのことでしたし・・・。
 たまたま後の席に、ママの友達らしき小さな女の子がいました。その子を前列に誘って、私の席に座らせました。これでママも寂しくはないでしょう。で、舟を漕いでいたママにもう一度言いました。「ココは帰るからね。」 ママは子羊の声で何か言いましたが、私には解かりません。

 私がソワソワして、ママがウトウトしている間に、舞台の準備は進んでいました。踊りに興じていた生徒たちは舞台裏に入り、校長らしき男性の挨拶が始まっていました。私が席を立って観客席の後に向かうと、待ちに待った演劇が始まりました。
 何を演じているのか?全く解かりません。言葉はもちろん、土地の言葉。おそらくバンバラ語でしょう。もしかしたら、ソンライ語かもしれません。私に解かるはずもありません。察するに、古典や有名な話を演じているのではなく、一般の人々の普段の生活を演じているようでした。ストーリーは全く察することができません。老人役の男の子、牛飼い役の男の子、老婆役の女の子、夫婦を演じる男の子と女の子。アイシャタが出てくるまで、待とうと思いましたが、10分経ったところで、集中力が切れました・・・。

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写真4)面白いのは、マイクを使ってること!ステージ中央に置かれた2本のマイクを演者が交互に手に持ち、スピーカーを通して、生徒の声が会場にこだまします。

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写真5)会場には時おり笑いが起こっていました。内容が全くわからん・・・。

 会場の後の方には、立ち見の人垣ができていました。その人垣を掻き分け、外に出ようとすると、呼び止める人々の声がありました。多分、「もう帰るのか?」みたいなことを言っているのでしょう。

 うん、もう帰ります。ダンスは楽しかったけど、舞台は解からないんですもん・・・。

 翌朝、アイシャタとママが、未来の毛布を返しに家にやって来ました。アイシャタの「私が舞台に立った時には、ミクもココも居なかったわ」という言葉が、胸に刺さりました。ゴメンね、アイシャタ・・・。

ジェンネの月曜市 

 ジェンネの町が一番賑わう日、それは月曜日。町の中心に聳える土造りの大建造物・大モスク前の広場に、ギッシリと露店が立ち並びます。市は、大モスク前の広場だけではなく、そこから北に向かって300mほど続きます。どこもかしこも、店店店!人人人!です。

 マリ各地でこのような市が行われています。小規模なものから、大規模なものまで。町によって、市の曜日が決まっていて、市の日は、周辺の村々を含めた、地域一帯から人々が売り物を持ち込み、買い物にやってきます。

 ジェンネの月曜市は、外国人観光客にも有名ですが、観光の客寄せの為のものではありません。地元の人々のための市です。月曜日は、周辺の村々から人々が押し寄せます。売られているモノは、食料品、日用雑貨、衣料品、家畜、薪、医薬品、自動車・バイクの部品、などなど、などなど、とにかく多岐に渡ります。

 私のジェンネ滞在中、3回月曜市がありました。到着したのが、月曜日でしたから、到着初日と滞在7日目と滞在14日目。毎週月曜日は、市をヤラヤラ(ブラブラ歩き)していました。ジェンネの月曜市を写真で紹介します。

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写真1)ジェンネの象徴・大モスク前の広場に立ち並ぶ露店。強い日差しを避けるため、シートで屋根が作られます。

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写真2)大モスク前の広場から、北に延びる露店の列。このあたりは幅30mほどの細長い広場。露店の列が4本ほど走り、狭い通路を人々が行き交います。

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写真3)写真2のあたりを別の角度から撮るとこんな感じ。

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写真4)写真2のあたりを建物の上から撮るとこんな感じ。

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写真5)売り子は、女性が大半。各家庭で作ってきた料理などを売る人も多く、市の日は美味しい食事に困りません。

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写真6)市の北のはずれ。トラックで運び込まれた川魚の干物の山。ナマズなどの川魚は、マリ料理に欠かせません。

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写真7)誰でも500フラン(約120円)の出店料を払えば、商売ができます。田舎の人々にとっては、現金収入を得る貴重な機会。モノの少ない田舎では、この月曜市は貴重な買い物の機会。売り手も買い手も元気で、とても活気溢れる市です。

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写真8)夕方になると、露店の撤収が始まります。午後5時、大モスク前の広場にトラックが数台入り、遠方から商売にやってきた人々が、商品をトラックに積み込んでいました。

 普段は静かなジェンネの町も、月曜日はとても賑わいます。私には、そのギャップが印象的でした。火~日の静かな町も好きだし、月曜の活気溢れる町も好きです。

ジェンネ・大モスク建造100周年記念祭 

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写真)ジェンネの中心に聳える、世界最大級の土の建造物・大モスク(グラン・モスク)。日没直後の陰影。

 この大モスク、建造100年になんだそうです。もっと以前からモスクはありましたが、現存する大モスクが立てられたのが、100年前ということです。
 土の建造物ですので、100年前に建てられたままという訳ではありません。雨が降れば、しだいに表面の土は流れてしまいますし、激しい温度差が土の表面を剥離させてもいきます。ですので、毎年、2~3月頃に、大規模な土壁の塗り替え作業があります。今年2008年の塗り替え作業は、例年よりも遅れるそうで、4月ぐらい?にあるとか、5月になるとか?色々な噂があります。

 さて、建造100周年記念祭はどうなったか? この100周年記念祭、当初は2007年12月27日~30日の予定で、開催準備が進められていました。私がそのタイミングを意識して、12月中旬にマリ入りしたことは、以前のエントリーで紹介しました。が、マリ入り間もなく、その100周年記念祭が延期になったことを知りました・・・。
 →

 延期になった理由は、開催費用が足りなかったからだそうです。ジェンネに1年暮らす私の実妹に部屋を貸している大家さんは、ジェンネに数人いる地区会長さんのひとり。大家さん・バダラさんは、市長や他の町の有力者たちと一緒に、100周年記念祭の準備を行ってきました。だから、妹は、比較的この祭りの裏事情には詳しいみたいです。

 そもそもの開催計画に無理があったとも言われています。あまりに盛大な式典を計画した為、開催費用が足りる訳もなかったというわけです。それに加え、調達済みの開催費用の一部が、行方不明になるという事件もあったそうで・・・。12月に入ってから、開催延期が決まりました。

 私がジェンネに滞在している間は、延期の日程は、全くの未定でした。開催計画は白紙に近い状態になってしまったのです・・・・。

 1月上旬のある日、近郊の水田に泊り込みで稲刈りに行っていた、大家さん・バダラさんが急にジェンネの家に帰って来ました。明日から、ジェンネ市長と一緒にバマコに行くと言うのです。大モスク建造100周年記念祭の開催費用調達のため、バマコで政府機関や企業の援助を求めに行くのです。
 翌早朝、正装したバダラさんは、バマコに向かいました。私は、その翌々日にジェンネを出てしまったので、資金調達が上手くいったのかどうか?は知りません。

 この話は、3月4日にアップロードしました。3月4日時点で、まだ100周年記念祭の新日程は、定かではありません。大モスクの泥の塗り替え作業も、いつになるのかはっきりしていません。泥の塗り替えは、3月末~4月上旬という噂ですが・・・、あくまで噂です。

 大モスク建造100周年記念祭、見れるものなら見たかったのですが・・・。もう、諦めました。

 マリですからね。こういうイベントの計画・経営は、苦手なんですよ、マリの人たちは、きっと。これが、アフリカの常識なのかも知れません。

長屋の光景 

 2008年1月上旬のジェンネ居候生活。

 ジェンネで私の妹が暮らす長屋には、4軒が暮らしています。妹の部屋の隣は、大家さんの息子・セクーの部屋。その隣は、トゥーレ一家(夫・妻・子3)。トゥーレ家の上が、パン屋さんの一家(父・妻2・子2)。さらに、中庭を挟んで向かい、入り口は表に面していますが、セクーの友人たちが暮らす若者部屋もあります。

 水道は中庭に1つあるのみ。この水道を使うのは、妹とセクーと大家さんの一家のみ。トゥーレ家とパン屋さん一家は、町の公共水道から水を汲んできています。
 トイレは、小のみに使うトイレ(ただ囲いがあるだけ)と、大&小と水浴び場を兼ねるトイレ(2階の一角に囲いがあって床に丸い穴が空いてるのみ。オープンエアー☆)の2箇所。これを長屋の皆で共有しています。

 中庭は、子ども達の遊び場であり、トゥーレ家の台所でもあります。妹の部屋の前に椅子を置き、のんびりしていると、実に楽しい光景を見ることができます。子どもたちが遊び騒ぐ姿。洗濯をするトゥーレ家の娘・サー。料理をするトゥーレ家の恐母・クンバ。どこかで捕獲した(盗んで来た?)羊を捌くセクーとその仲間たち。ラジオを聴き寛ぐトゥーレ氏。

 そんな長屋の中庭の光景を紹介します。

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写真1)妹の部屋から見える中庭。この四角い画面は、まるで、ホームコメディのワンシーンを映し出すテレビモニターのようなものです。

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写真2)長屋の屋上から見える光景。ジェンネのシンボル・大モスクまでは、徒歩1分。この長屋は町の中心部にあります。

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写真3)長屋の屋上から見える光景。ジェンネの町の建物は、ほとんど日干し煉瓦と泥でできています。

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写真4)長屋の屋上から見下ろした、ある日の夕方の、中庭の光景。夕食の準備をするサー、その隣にはスーレイとウスマーニ。アブとジャカリジャが向かいの長屋の子らとタイヤで遊んでいます。その中を横切る私の妹。

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写真5)子ども達は、コトあるごとに、写真を撮れと言う・・・。この長屋の中庭で遊んでるのは、長屋の子ども達と、向かいの長屋の子ども達と、裏手に暮らす大家さんの第一夫人の子ども達と、徒歩1分のところに暮らす大家さんの第二夫人の子ども達。

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写真6)アブ&ジャカリジャ兄弟と、その友人。

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写真7)アブ&ジャカリジャ兄弟と、その友人たち。


 毎日、楽しい光景が繰り広げられるので、飽きることはありません。

ジェンネ居候生活/人物紹介⑫未来(ミク) 

2008年1月上旬、ジェンネでの愉快な居候生活。最も重要な登場人物を紹介してませんでしたね。12人目は、私の実妹、未来です。ミクと読みます。

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写真)郵便局へ行く未来(ミク) パッと見、これでは地元民と大差ありません。

 未来は、大阪大学大学院で文化人類学を研究する博士の卵です。ジェンネを研究対象にしており、かれこれ1年近くこの町に暮らしています。フランス語の他、土地の言葉バンバラ語やソンライ語も操ります。私の通訳&世話係。町の人々と仲が良く、通りを歩けば多くの人が声をかけてきます。おかげで、コバンザメしている私も、町の人々と触れ合う機会を多く持つことができました。

 4人兄妹(男男女女の私は二男)の中で、一番歳の近い2歳下。4人の中で一番勉強熱心です。とうとう、文化人類学博士を目指すなんてところまでいってしまいました。思春期以降は、たまに口論などしたものです・・・。口も論もしっかりしてるので、時に私が悔しい思いもしました。まぁ、お互い大人になってからは、仲良くしています。
 研究対象というか、興味の対象が、異文化という点では、私と同類と言えます。一番近くにいるライバルです。18歳から自分の足で世界を旅して、そこで吸収したことを何となく勉強・研究していた私の学生時代、妹は徹底的な机上の研究を行っていたようです。それが、今ではフィールドワークでマリにいます。勉強が得意な上に、行動力まで身に付けてしまいました・・・。行動的な私/非行動的な妹、という住み分けができなくなりました。
 『こころ君のおかげで、自分はこんなことができてる』と言われたことがあります。数年前の話ですが、兄が独りで自由に世界を歩いてて、たまに命を落としかけたりしてきたことで、『父母に強い免疫をつけることができた』という意味でしょう。妹がマリに行くと行った時、父母は、反対できたはずもありません。そもそも、反対などしなかったでしょう。そういう意味で、私の『おかげ』なのかも知れません。或いは、私の行動に感化されたとも考えられます。あっ、ちなみに、うちの兄妹の上3人は、皆名前で呼び合ってます。
 私は私で、妹の存在が、良い意味で向上心に繋がっています。旅行家と学者では、評価の仕方も、され方も違うでしょうけども、妹には負けたくない!と意識しているのです。妹は私よりも文章力のある書き手ですが、文筆活動では、私が先を行くことができています。ちょっとだけ、リードしてる☆ この距離間をずっとキープしときたいんです。2歳年上ですからね、私。まぁ、分野も肩書きも性別も方向性も違いますから、争うようなことではないのですが、『未来も頑張ってるんだ。俺も負けんぞ』という気持ちが、良い作用を生んでいる訳です。
 さてさて、そんな妹・未来ですが、ジェンネでは11ヶ月を過ごしています。近々帰国の予定です。研究対象がマリにある訳ですから、これからもチョクチョクこの国に通うことになるでしょう。未来がジェンネを発つのは、1月15日。私は未来の11ヶ月に及んだジェンネ滞在、最後の2週間を一緒に過ごしている訳です。

 未来のおかげで、充実のジェンネ滞在となりました。
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ジェンネ居候生活/人物紹介⑪大家さん・バダラ 

2008年1月上旬、ジェンネでの愉快な居候生活。人物紹介11人目は、妹に部屋を貸している大家さん、バダラさん。

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写真)これ、写真の写真です。威厳漂うダンベレ家の家長です。

 大家さんの名前はバダラさん。苗字はダンベレ。職業は農家。ジェンネの地区会長さんも務める人徳者です。ふたりの奥さんを平等に扱い、それぞれの家庭で良い父親をしています。合計で12人くらい子どもを持っていますが、働き者なので比較的豊かな生活をしています。

 私とバダラさんが会ったのは、2週間のジェンネ滞在で2回だけです。ちょうど私の滞在中は、稲の刈り入れ時期で、彼は、第二夫人とお手伝いさんを連れて、泊り込みで近郊の水田へ行っていました。2週目の週末に1度帰宅した後、再び水田に戻り、3週目に帰って来たかと思うと、バマコへ行ってしまいました。複数いるジェンネの地区会長の中で、最も市長の信頼が厚いバダラさん。年末に予定されていたけれど、資金不足で延期となった『ジェンネの大モスク建造100周年記念祭』の資金再調達の為、市長に連れられて、バマコに行ったという訳です。彼自身も、熱心に記念祭の企画準備にあたっていたそうで、とても職務に勤勉な人です。

 彼の子どもの内、成人して家を出た数名は、バマコで大学に通っているそうです。彼自身はろくに学校を出ていないそうですが、フランス語もきちんと操る、とても賢い人です。大学の学費はほとんどかからない国ですが、それでも数名を大学まで出すのは大変なことでしょう。彼の一番小さな子どもは、まだ生まれて数ヶ月。まだまだお父さん、頑張らなくてはなりません。
 2度会って、少しずつ言葉を交わしただけですが、聞いていた通りの人格者だと感じました。凛々しい顔立ちと、どこか威厳を感じさせる立ち振る舞い、それでいて優しさを感じさせる目。握手した手は、体と同じく細い指でしたが、大きくて硬い、働き者の手でした。バダラさんが大事にしている写真の中で、マリの大統領と一緒に写ってる写真がありました。どこか“大阪の下町の工場長”的な雰囲気の、ラフで人間臭い大統領。その隣に座るバダラさんは、キチッとした正装で、キリッとした視線で・・・、彼の方がそれっぽく見えました(笑)

病みあがりだから、っていうか、運動不足・・・ 

2008年3月10日 久しぶりのサイクリングは、まぁ、大した問題ありませんでした。

 2月にマラリアを患って以降、19日ぶりのサイクリングでした。8日にバマコを発ち、西へ西へと走ってきました。昨日9日の昼過ぎには、キタ(KITA)に到着。2日間で約190kmを走りました。
 8日は90kmを越えたぐらいのところで、ふと自転車を止めると、膝がカクカクしてました・・・。病みあがりだから、っていうか、単純な運動不足だと思われます。この4週間で、自転車移動は、僅かに2日間しかなかったのですから。楽なサイクリングではありませんでしたが、まぁ、久々ですから、こんなもんでしょう。

 キタには2泊しました。なんてない町です。観光の為ではなく、休養の為。普段なら、1週間ぐらい毎日走り続けたりします。が、運動不足ですから、ボチボチ走って徐々に体を慣らしていくことにします。

 明日から3日で300kmちょっと走って、マリ西端の町・カイを目指します。

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写真)走行再開2日目朝。筋肉痛などはありません。元気に走り出しました。

ジェンネ居候生活/人物紹介⑨シュウレイ♪と⑩ウスマーニ 

2008年1月上旬、ジェンネでの愉快な居候生活。人物紹介9人目と10人目は、パン屋の息子の兄弟スーレイとウスマーニです。

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写真1)シュウレイ、こと、スーレイ。下段、ピンクのシャツの男の子です。その上は兄のウスマーニ。

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写真2)ウスマーニ、こと、ウスマン。

 長屋の二階に暮らすパン屋さん第一夫人の2人の子ども。弟のシュウレイと、兄のウスマーニ。人懐っこくて働き者のお父さんに似て、ふたりとも愛嬌たっぷりです。もちろん、この歳ではまだフランス語は無理。シュウレイはまだ土地の言葉も無理です。私との会話は成り立ちませんが、可愛いので、私からも話し掛けてました。

 シュウレイの本名は、スーレイ。小さな子どもたちの舌足らずな発音では、シューレイと聞こえます。まだ言葉らしい言葉も話せない、長屋の最年少。どこでもそうだと思いますが・・・、小さな子どもは、子どもたちの中でも可愛がられます。「シュウレイ♪サバ? シュウレイ♪サバ?」よく長屋の子どもたちが歌っていました。意味は、『シュウレイ、こんにちは!』それだけです。年長の子どもたちは、シュウレイを囲んで、この歌を歌います。シュウレイは、なんだか良く解かってない感じで、でも楽しそうにしています。もちろん、大人たちも可愛がります。怖いおばちゃんクンバでさえ、シュウレイと接する時は、優しいものです。子どもたちに厳しい、私の妹でさえ、シュウレイにはデレデレです。普段は、頼まれても写真撮らないのに、シュウレイだったら撮るぐらいです。それを知ってる子どもたちは、シュウレイを餌に、自分の写真を撮ってもらおうとします。

 ウスマーニの本名は、ウスマン。土地の言葉バンバラ語で、“ニ”は『小さい』の意味。小さな子どもの名前は、語尾を弄って、●●ニとなることがあります。ウスマン・ニで、ウスマーニです。シュウレイのお兄ちゃん。あまり活発な印象は受けませんが、いつも笑顔を浮かべて遊んでいます。
 ウスマーニは、よく妹の部屋の前に来て、名前だけ呼んで行きます。「ミッ!クッ!」「コッ!コッ!」玄関にかかった暖簾の奥から顔を出すと、ただ笑っています。 「ウッスマ~ニッ!」リズムを付けて名前を呼び返せば、会話は成立します。いつも笑顔(半笑い)なので、この子の写真が一番撮り易く、何度か私の写真撮影に協力してもらいました。上の写真2は、私がやってる企業コラム(スポンサーさんの“サイクルベースあさひ”でやってる『こころの自転車世界一周の基礎知識』というコラム)で使う為に撮った写真です。

 パン屋の息子ふたりは、ちょっと控え目な可愛い子たちです。

ジェンネ居候生活/人物紹介⑧サー 

2008年1月上旬、ジェンネでの愉快な居候生活。人物紹介8人目は、アブとジャカリジャの姉、クンバのひとり娘、サーです。

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写真)写真左下の女性、アニメ声のサーです。

 サーは、長屋の隣の一家トゥーレ家の一人娘。アブとジャカリジャの姉です。年の頃は、18歳前後でしょうか。もう学校は出ている(か、もしくは行ってない)ようで、家事手伝いをしています。いわゆる“アニメ声”で、高くてちょっと鼻にかかった感じの声で話します。フランス語は得意ではないようで、私とは全く会話が成り立ちません。あまり話した記憶もありませんが・・・、一日の中で顔を合わせる回数は一番多かったのではないでしょうか?一日の大半を、長屋の中庭で家事手伝いをしながら過ごしています。

 サーを見ていて、驚くのは、彼女の体を軟らかさ! まぁ、アフリカの人は大抵そうですが、体が柔らかい!! 食器を洗う時、洗濯物をする時、彼女は、地面に置いた鍋やタライの中の衣服を前屈状態で洗います。まぁ、これも大抵の人がそうなのですが・・・。彼女は細くて背が高いので、特に強烈な印象を残します。顔はほとんど膝の間にあって、手は鍋や桶の中で、ゴシゴシと力強く動いてます。で、この状態でもアニメ声で周囲の人と話しています。見慣れるまで、とても不思議な光景でした・・・。

 ところで、マリはイスラームの国です。国民の80%以上がムスリムだと言われています。由緒正しい大モスクが象徴的なジェンネでは、ほぼ100%がムスリムでしょう。当然、この長屋の人々も皆ムスリムで、トゥーレ一家もムスリムです。トゥーレ家のお父さんは、毎日きちんとお祈りしてます。まぁ、マリでは普通の家庭です。
 ある日の昼、私が2階で水浴びして、中庭に下りると、サーが上半身裸で立ってました。年頃の女の子が・・・、です。「おいおい!いいのか?イスラム教徒!」と思いましたが、本人は私が隣を通っても気にしている様子はありません。どうやら着替えの最中だったようですが・・・、恥ずかしくはないようです。マリ、不思議なところです。
 マリでは日常的に、こういう場面を目撃します。川の畔で上半身裸で水浴びをする女性と、その後方でメッカに向かって熱心に祈りを捧げている主人らしき男性。赤子を抱いた露店の女性は、片乳を投げ出したままお客さんと交渉していました。赤ちゃん、もう寝てるから、お乳飲んでません。

 マリ、不思議なところです・・・。サーの声の高さも、ちょっと不思議です。

バマコ出発!走行再開☆ 

2008年3月8日 ダカールを目指して、これから走り始めます。

 マラリア発症で急遽舞い戻ったバマコ。3泊4日の入院も含め、結局17泊も滞在しました。退院時点でかなり落ち込んでいた体力も、しっかり・すっかり癒えました。

 5日には出発のつもりでしたが、5日未明に腹痛で苦しみ、それから1日半、満足な食事ができなかったので、出発が順延になっていました。もう腹痛もなくなりましたし、体も心も走り出したくてウズウズしています。
 これから向かうのは、マリの西隣の国セネガル。首都ダカールまで2週間ちょっとの走行になります。体調はマラリア発症以前の水準に戻りましたが、体力はどうか?走ってみなければ解かりません・・・。無理はせず、2日走って・1日休養日、というリズムで走りたいと思います。

バマコ出発・今後の走行予定ルート地図
地図)今後3ヶ月の旅は、こんな感じです。青い線は走行済みのライン。赤い線がこれから走るライン。

 目指すは、ダカール!そして、ダカールから、『リスボン・ダカールラリ-/独りぼっちの逆走サイクリング』をします。

 リスボンに到着すれば、05年末~07年11月の707日間で走破したユーラシア横断の軌跡と、マリトンブクトゥから刻んできた西アフリカ旅の軌跡が結ばれることになります★


 あっ、そうそう!今、マリに中田ヒデが来てるらしいです。一昨日の夜のマリのニュースで出てました。どこか、道路上で会ったら面白いですけどね。

ジェンネ居候生活/人物紹介⑦クンバ 

2008年1月上旬、ジェンネでの愉快な居候生活。人物紹介7人目は、長屋の怖いおばちゃん・クンバです。

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写真)上段左端の厳しい表情の女性がクンバです。「私、写真苦手なのよ!」写真のクンバは、いつも怖い顔・・・。

 クンバは、長屋の隣に暮らすトゥーレ家のお母さん。つまり、アブとジャカリジャの母親です。ちょっとヒステリーで、一度怒り出すと、とことんまでいってしまいます。アブが悪さをすると、徹底的に叩きます。ジャカリジャが悪さをしても、徹底的に叩きます。その加減は、相当なようで・・・、たまに近所の人が割って入るそうです。「クンバ!もういい!もうやめな!!」と。フランス語はほとんど喋りませんので、私との会話は何も成り立ちません。

 クンバは、午前中、家のすぐ近くで揚げパン屋をしています。パンというのは正確ではないですね。トウジン稗の団子のフライを売っています。100フランで11個。これが私と妹の朝食です。近所の人々の多くが、クンバのところで朝食を買うので、クンバは近所の宣伝塔のような役割を果たしています。クンバに話したことは、たちまち近所に知れ渡ります。以前、妹が砂埃に鼻をやられて、鼻腔の洗浄しようと鼻から水を少しずつ吸っていたところを目撃してしまったクンバは・・・。「あの子!鼻から水飲むのよ!!」と近所に広めてしまったそうです。

 怖い“おばちゃん”、と言いましたが、実際にはまだそんなに歳ではなさそうです。多分、35歳くらい?かな?? 本人曰く、「私はそんなに、おばちゃんじゃない!」だそうです。ここの人なら、まだこのくらいの若さなら、子どもを産みます。10代後半で結婚して、すぐに子どもをもうけていたとして、彼女の長女が18歳ぐらいですから、はやり、30代中ごろでしょうか。私と大差ない年齢ですね。
 近所でも評判の怖い怖いおばちゃん・クンバ。長屋やその隣の長屋の子どもたちの悪ふざけが過ぎるときは、「クンバが来るぞ!」と避けべば、子どもたちは蜘蛛の子を散らしたように、逃げます。クンバ様様です。クンバのおかげで、この長屋の子どもたちは、健やかに育っているのかも知れません。
 アブとジャカリジャにとっては、怖い怖いお母さんですが、子どもたちはお母さんが大好きです。激しく叩かれまくった後でも、ちょっと時間が経てば、「ねぇ、クンバ!クンバ!」と寄っていきます。子どもたちは、母親のことをクンバと呼んでいます。クンバの旦那さんは、穏やかなお父さん・トゥーレ氏ですが、子どもたちは、お父さんも大好き。夫婦の仲も良いようで、トゥーレ家は、とても良い家庭です。

 ただ、ちょっとだけ・・・、クンバは怖いです。

ジェンネ居候生活/人物紹介⑤アブと⑥ジャカリジャ 

2008年1月上旬、ジェンネでの愉快な居候生活。人物紹介5人目と6人目は、長屋の隣に住む兄弟アブとジャガリジャです。

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写真)右が『アブ』こと、アブドゥライ。左が、ジャカリジャ。彼らは、平日は毎朝、小学校に行く前に、コーラン学校にも通っています。

 アブが弟で、ジャカリジャが兄です。長屋の隣に暮らすトゥーレ家の2人の男の子。居候生活中、最も見る機会の多かった子たち。いつも腹ペコなワンパク坊主。フランス語はまだまだ殆ど喋らないので、私とは全く会話が成り立ちません。が、現地語を解する妹の仲介で、色々と彼らの話を聞くことができました。デキの悪い子ほど、可愛いもんです。私、この兄弟がとても好きになりました。

 アブは、とにかくワンパクです。悪さをすれば、お仕置きされて泣き叫ぶ。大声で歌えば、大声で笑う。私や妹が食べているものは、大抵欲しがる。私が持ってる不思議な装備品には、必ず興味を持つ。私に何か話しかけてくるけど、私は何も解かりません。私が彼に何かを話しかけても、彼は何もわかってません。
 近所の友達と長屋の中を走り回り、通りでタイヤを転がして走り回り、とにかく元気。元気すぎて、どこかで足の指を怪我したようで、傷口が化膿してしまっています。たまに、その怪我した箇所をどこかにぶつけては、断末魔のような鳴き声をあげています。「アギィ~!!アィ~!アイ!アイ!ヒギィ~!!」と。でも、その数分後には、また大声で歌ってます。そんな愉しい光景を毎日のように見せてくれます。

 ジャカリジャは、ちょっと前までは、現在のアブと大差ないキャラクターだったようですが、ここ最近、急にお兄ちゃんになったそうです。やはり、ワンパク小僧ですが、アブと比べると程度はそれほどでもありません。さすが、お兄ちゃんとあって、タイヤ転がしの腕はナカナカのもの。26インチのタイヤを巧みに転がします。たまに、悪さをして、厳しい母親に怒られていますが、泣いてるところはあまり見た記憶はありません。
 そんなジャカリジャですが、やはり、アブの兄です。分別の心は付き始めていますが、まだアブ的な要素は残しています。ある日、私が捨てようとしたオイルサーディン(魚の缶詰)の空き缶を欲しがったので、彼にあげました。「中身舐めるなよ。舌切るぞ!」と注意して渡した後、横目で彼を観察していると・・・。缶に残っている魚肉とオイルを指で掬って、口に運んでいました。で、何回か舐めた後、指を銜えたまま出さなくなりました。どうやら、缶の切り口で指を切ったようです。だから注意したのに・・・。その数日後、また私が捨てようとしたオイルサーディンの缶を欲しがったので、あげました。その数分後に、私はまた同じ光景を目にしました。また指を切ったようです・・・。

 頑張れ!ジャカリジャ!!人間、そうやって、学習していくんだぞ!!

 ちなみに、アブは母親似、ジャカリジャは父親似です。

ジェンネ居候生活/人物紹介④ママ 

2008年1月上旬、ジェンネでの愉快な居候生活。人物紹介4人目は、みんなのアイドル、ママ☆

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写真)仲良し3人組。左がママ。右の男の子は、ママと異母兄妹(第一夫人の子)のバ・ハセ。中央は、従姉妹(?)の女の子。

 ママは、大家さんの第二夫人のとこの末っ子。6歳ぐらいの可愛い女の子です。末っ子というのは、大抵どこの家庭でも可愛がられます。もちろん、ママも家族にとても可愛がられています。
 「ミクゥ~!ココォ!」私たちの名前を呼ぶママ。ママはとても甲高い声で、しかも、とてもお喋り。どこにいても、声で解かります。しかし、あまりに甲高い声ゆえ、たまにママの声と子ヤギの鳴き声を間違えてしまうこともありました。「メェ~!」「ん?ママ?」長屋のゴミ箱を漁りに来た近所の子ヤギが発した声をママの声だと勘違いしてしまうのです・・・。また、その逆も然り。ママが長屋の中庭で騒いでいると、子ヤギが来たのかと勘違いしてしまいます。

 愛嬌ある顔に、明るいキャラクターのママ。父バダラ氏や母親はママを溺愛し、姉のアイシャタやニャムイ、ハワも、兄のアルハジも、皆、ママを可愛がります。で、それゆえに(?)、ママはとても我がままに育っています・・・。 「嫌だっ!! いぃ~やぁ~だっ!!」と口を尖らせて叫んでいる姿を何度か目にしました。私の妹曰く、これはいつものことだとか・・・。

 ちょっと我がままであっても、可愛いママは、みんなのアイドルです。私もママが大好き。でも、私とママの間に会話は成立しませんから・・・、いつまでも距離が縮まることはありませんでした。

ジェンネ居候生活/人物紹介③ニャムイ 

 2008年1月上旬、ジェンネでの愉快な居候生活。人物紹介3人目は、ニャムイ

 ニャムイは、アイシャタの妹。つまり、大家さん・バダラ氏の第二夫人の娘。アイシャタとは1~2歳の歳の差ですから、12~13歳。小柄な姉よりも、体は大きく、アイシャタと同じ学年で勉強しています。ニャムイという名前は、本名ではありません。本名は・・・、忘れました。ニャムイというのは、『母と同じ名前』という意味だそうです。母親の名前と区別する為に、このようなニックネームで呼ばれてるみたいです。
 アイシャタ紹介の時に触れた通り、このニャムイもあまり勉強が得意ではないようです。あまりフランス語は得意ではありません。私の妹と自分の姉アイシャタが会話しているフランス語が解からないらしく、よく「今、ミクは何て言ったの?」とアイシャタに訪ねている光景を目にします。

 ジェンネでの昼食と夕食は、大抵大家さんの第二夫人の一家と一緒に頂いていました。毎日午後1時頃と、午後7時頃に、家に行って、家族と一緒に食事をするんです。私の妹が部屋を借りるのと一緒に食事の世話もお願いしているそうで、私も一緒にお世話になっていました。
 大家さんの第二夫人の一家は、父・母と子どもが5人、そしてお手伝いさんが1人。私のジェンネ滞在中は、稲刈りの時期だったため、農家を営む大家さんは、第二夫人を伴って、近郊の水田に泊り込みで稲刈りに行っていました。だから、食事の時に顔をあわせるのは、子ども達だけです。顔を合わせるのは、年長のハワ(夫人の連れ子・27歳)、アル・ハジ(18?)、アイシャタ(14)、ニャムイ(13?)、末っ子のママ(6)、お手伝いさんのアリマ。そこに私と妹が加わり、皆で車座になって、洗面器のような皿を囲みます。
 手で食事をすることに苦戦している私に、皆はとても気を遣ってくれます。「ココロ、もっと食べて」とアイシャタ。ニャムイは、当初、無言で私の顔を見つめていたりしました。何が不思議なのか?不思議そうに、じぃ~っと私を見ているのです・・・。数日後には、私にも慣れたのか、熱い視線を送る代わりに、私の前にほぐした魚の身を置いてくれたりするようになりました。無言で、「食べて!」と言ってくれているのです。ちょっと不思議ちゃんなニャムイですが、優しい子なのです

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写真)毎週月曜日、ジェンネの中心部は巨大な市と化します。誰でも500フランを出せば、店を出すことができます。ニャムイとアイシャタは、毎週アイス屋を出しています。このアイス屋業は、長姉・ハワの普段の仕事です。左・ニャムイ。中央・未来(ミク)。右・アイシャタ。

ジェンネ居候生活/人物紹介②ドラミちゃん 

 2008年1月上旬、ジェンネでの愉快な居候生活。人物紹介2人目は、『ドラミちゃん』こと、アイシャタ

 アイシャタは、妹に長屋の一室を貸している大家さんバダラ氏の第二夫人の娘。一家自慢の秀才です。14歳という歳の割には、小さな体の彼女。見た目が幼く見えることもあって、その秀才ぶりが際立って感じられます。ジェンネに暮らす兄弟(異母兄弟も含む)の中で、とにかくダントツで賢い彼女は、フランス語も流暢に操りますし、英語も片言理解します。言動や物腰も14歳とは思えない程、大人びていて・・・、私と妹の間では、『ドラミちゃん』と呼ばれていました。兄・セグーのドラえもんとセットで、このようなニックネームを付けられてしまったのです。「ドラえもんに比べて、ドラミちゃんのオイル(頭脳)の濃いこと!濃いこと!同じ遺伝子を有しているとは思い難い・・・」とは、私たちの会話です。

 『聡明』という言葉が、ぴったりのアイシャタ。学校での成績も毎年トップだそうです。が、一度だけトップの座を他に譲ったことがあるのだとか。その理由は、試験の時に、同級生の兄妹たちのカンニングを助けた、そのペナルティだったそうで・・・。アイシャタと、彼女の兄2名アル・ハジとセグー、そして妹のニャムイは、皆同じ学年・学級なんだそうです。進級が遅れている兄たちに、妹たちが追いついてしまっているわけです。聡明なアイシャタは、不出来な兄妹たちを助けた為に、自らの成績を落としてしまいました。

 アイシャタの夢は、フランスで勉強すること。聡明な彼女です、成績の面では問題ないでしょう。ただ・・・、少し心配なのは、体の小ささ。かなり小柄で、10~11歳にしか見えません。これからグン!と伸びるのかもしれませんが・・・。まぁ、体が小さくたって、フランス留学には障害にならないでしょう。聡明なドラミちゃんは、きっと、自分で自分の未来を切り開くに違いありません。

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写真)アイシャタの写真の写真。2~3年前に撮ったであろう、ちょっと古い写真です。つまり、アイシャタが12歳ぐらいの時の写真。なんて!なんて!聡明な表情でしょう!!この子は只者ではありません。きっと、大物になる!! 

ジェンネ居候生活/人物紹介①ドラえもん 

2008年1月上旬、ジェンネでの愉快な居候生活。私と関わりのある人物を紹介しながら、ジェンネという町と人々の暮らしぶりを紹介していきます。まず、1人目は、『ドラえもん』こと、セグー。

 セグーは、長屋の一室に暮らす19歳ぐらいの青年。妹に部屋を貸している大家さん・バダラ氏の第二夫人の息子(甥という説もあり)です。

 彼はまだ中等学校に通っている、学生です。マリの教育システムは、9年間の初等・中等一環教育。6歳ぐらいで1年生、その後、定期的にある進級試験をクリアしながら、9年間学校に通います。でも、進級試験をパスできなかった場合は、10年でも12年でも学校に通うことになります。セグーは、何度かダブってしまったようで、19歳でもまだ卒業できていません。

 勉強が苦手なセグーですが、決して悪い奴ではありません。その発言には、しばし知性を感じさせない要素も見受けられますが・・・、決して悪い奴ではありません。気は優しくて、意外と礼儀も正しい。そのキャラクターゆえ、私と妹の間では、『ドラえもん』と呼ばれていました。
 セグーは、同世代の親戚や友人と一緒に、長屋の一角にある“若者部屋”で生活をしています。実家にはあまり出入りしません。これがジェンネの一般的な若者の暮らしなんだそうです。ある程度の歳になると、実家を出て、若者だけで生活をするのです。この長屋の一角にある若者部屋では、3~4人の青年が暮らしています。セグーは、その中心的な存在。私は、毎日朝夕、必ずセグーと顔をあわせていました。
 「シェー!シェー!」私を呼ぶセグーです。シェー?? よぉ~く聞くと、彼は「サー」と言っているようです。英語で、「だんな」とか「ご主人」とかを意味する“サー”です。植民地支配が残した“感覚”でしょう。英語を数年勉強している彼ですが、全く英語は話せません。で、サーの発音も、シェーになってしまってます。いっそ、フランス語で「ムシュ」と呼んでくれた方が自然なんですけど・・・、なぜか彼は、「シェー」と言いたがります。ドラえもんが、オソマツ君のイヤミみたいになってしまってます・・・。
 妹曰く、セグーのフランス語はチンプンカンプン、とのこと。彼、フランス語もあまり得意ではないようです。過去形・現在形・未来形がアベコベなので、妹は、いつも彼の言葉に首を傾げています・・・。

 勉強が苦手なセグー。でも、悪い奴ではないんですよ。

写真)あっ・・・、そういえば、ドラえもんの写真って、一枚も撮ってない・・・。写真無しです。

マラリア発症・・・ 

2008年3月2日 もうすっかり体調も回復しました。

 実は、私、2週間ほどの間に、マラリア発症→入院→療養という日々と送っていたのです。

 マリ中部の町モプティを発ったのが、2月18日のこと。マリの南隣ブルキナファソのボボディラッソという町を目指す5日間のサイクリングに突入して間もなく、マラリアを発症し、2月19日は激しい頭痛と悪寒と滝のような汗に襲われました・・・。

 詳しい経緯は、後ほど紹介するとして、ひとまず現状の報告です。2月24日にバマコの病院を退院して以降は、徐々に体調も回復し、昨日3月1日ぐらいからは、マラリア発症前の体調と大差ないぐらいまでに回復しました。
 しかし、まだ体のどこかに不調があるかもしれません。あと2~3日はバマコでのんびり療養するつもりです。

 多くの方にご心配をおかけしてしまいました。私はもう元気です☆ 


 

===以下、詳細な経緯です。====

2月18日・・・ モプティを発ち、ブルキナファソのボボディラッソという町を目指して5日間のサイクリングをスタート。初日は115kmを走り、ジェンネへの分岐点を10kmほど過ぎたところで、野営。

2月19日朝・・・ 、走り始めると、徐々に頭痛がし始める。様子を見ながら走り続けていると、40km地点で我慢できなくなり停車。頭がズキズキ!ガンガン!酷いめまい・・・。場所はすでにモプティから155m離れた、村らしい村すらない寂しい地域。体温も高いようで、汗が滝のように流れる。激しい頭痛と倦怠感で身動き取れなくなり、道端の木陰の下に倒れ込む。

 初めは、『自転車に誰か気付いて車で街まで連れてってくれやしないか・・・?』と期待をして、自転車を目立つ位置に停車させてましたが、冷やかしのクラクションがウルサイので作戦変更。荷物を全てばらし、自分が横になるマットレスの周囲に並べる。1段高い路面から見ると、異様な様が見て取れるはずでした。が、そうセッティングした時点で私のエナジーが切れました。日向で6時間、懇々と懇々と眠り続けてしまいました。

 夕方目覚め、ヒッチハイクを試みますが、通行量があまりにも少ない上、バマコ方面へ向かうので諦めざるを得ませんでした。その晩はすぐ近くの集落の外れにキャンプ。朝一の水汲みの時に、村人がテントを覘いて行くよう井戸のすぐ近くにテントを設営。未明で私が自力歩行も不可能になった場合、助けを求められるようにと考えて・・・。

 晩は、3度着替えるくらい汗をかきました。おかしなことに、明らかにマラリヤの症状なのに、頭の中で一生懸命否定していて、携行しているマラリヤ治療薬には手をつけませんでした・・・、「これで下がれば、マラリアじゃない!」と言い聞かせて解熱剤を服用しました。


2月20日朝・・・ は、自然と目覚めましたが、頭痛の激しさは変わらず。テントを覘きに来た村人が心配そうに私を見ていました。かけられる声すら頭に響いて、あたまがズキズキガンガン・・・、意識は朦朧。マラリア決定です。マラリヤ治療薬を飲むましたが、強力なクスリを服用するには、あまりに胃が弱ってました。飲んで5分後ぐらいに、僅かに口にしたパン諸共全て吐きました。クスリを飲むのを再トライしつつ、バマコで入院するのが最適だと判断。

 テントを畳んだ後、1時間ヒッチハイクを頑張った末に、外国人観光客1人を乗せたピックアップタイプの四駆が止まってくれました。それに自転車もろとも載せ、その外国人の旅行日程に沿って、昼食はのんびり2時間半取った後、セグーという街まで載せてもらいました。私はその間、ただただ後部座席で魘されていただけ。ヒッチハイク代は厚意で無料。同乗していたガイドは未来(ジェンネに1年暮らした私の実妹)のことを知っている人でした。伝に感謝。

 セグーにも病院はありますが、万全を期すためにも首都バマコが最上。すぐに、バスに乗り換えました。5時間後、夜の9時過ぎにバマコに到着。町外れのバスターミナルから、7km何とか自力で走り、中心部の宿に着いたのが10時少し前。

 宿は英語を解するオーナーがやっており、そこが治療の拠点に良いとの判断でした。その判断は、別の意味でも正解でした。宿には、マラリア経験者の日本人旅行者ら、数名がおり、体験談などを聞くことができました。借りた体温計で熱を測ると、『40度5分』!!こんなにあるとは思わず、慌てて、市販のマラリア治療薬を再トライ。今度は吐かずに済みました。滝のような汗を流しながら、時おり、下痢で目覚めながら、断続的に昏々と眠りました。


2月21日早朝・・・ 、マラリア治療薬を再び服用。しかし空腹には無理でした。すぐに吐きました。嘔吐と下痢がひと段落したところで、病院へ。この時点で正午、体温は『40度2分』。病院では点滴や注射によるマラリア治療薬の投与が受けられます。病院は、バマコで最も信頼のおけるパスツール病院というところを紹介してもらいました。

 初診の後、先生は「良くない、今すぐ入院!」とのことで、手ぶらで入院。着替えも何も用意してきませんでした。点滴投与が始まって間もなく、1月にできたばかりの日本大使館の臨時大使さんと職員さんが見舞いに来てくれました。医師から「あと1日病院に来るのが遅かったら、助からなかった」と聞いたそうで、妙に暗い顔で、『万が一に備えての対応』について、説明を受けました。私は、点滴を打ち始めたことで、もう助かったつもりでいたのですが、先方があまりに厳重な態度なので意見に従いました。こうして、私のマラリア発症の経緯が、実家に連絡されました。


2月22日・・・ には熱が下がり、徐々に頭痛も減ってきました。点滴は朝昼晩に4本ずつ。プラス、お尻に注射を1日1本。これを3日続けて、23日には医師から「もう退院する?」と聞かれました。どうせ宿に戻ってもキツイだけなので、23日まで入院としてもらいました。


 3泊4日の入院で、代金は8万円ぐらい。全て保険会社が出してくれました。24日の昼に退院しました。


その後・・・ 1週間ほど療養しています。退院後数日は微熱が続きましたが、2月末日以降、体調はマラリア発症前の水準に戻りました。しかし、40度の高熱が続いた為、自分が気がついていないところで、体にダメージが残っていると思われます。無理な移動日程は避けるべきです。あと2~3日療養したら、バマコを発って、セネガルのダカールを目指します。モーリタニアの砂漠を突っ切るルートを考えていましたが、体力的に負担が大きいので、セネガルルートを選びました。
 

 マラリア、怖い病気ですよ・・・。アフリカを旅する人は、気をつけましょうね。

マリの話をコツコツ紹介していきます 

2008年3月2日 お知らせです。

 ブログ、時系列がグチャグチャなので、私が今どこで何してるか?解かりにくいですよね。

 現在地は、マリの首都バマコです。今後、2~3週間で、1月のマリでの話をコツコツ紹介していきます。

 それ以前の07年のユーラシア大陸横断の時の話は、いずれ・・・紹介していきます。
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