スポンサーサイト 

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

トルコのEU加盟は可能か? 

2007年6月30日 コチラのエントリーと関連して、トルコのEU加盟の可能性に、論じてみます。

 私は国際政治専門家ではないので、見当ハズレもあるかも知れませんが・・・


 かつて、東ヨーロッパにまで領土を有したイスラームの大国、オスマントルコ帝国は、第一次世界大戦で、ドイツ&オーストリア側に付き、敗戦国となりました。敗戦国は、戦勝国に裁かれるのが歴史の常。1920年のセーブル条約では、トルコは、かつてのオスマン帝国の領土のごく一部、現在のトルコよりも少し小さい領土に収められることが決まりました。この条約によると、現在のトルコ南東部のクルド人地域は、周辺国(イラク・シリア)の一部と合わせて、『クルディスタン』として別の国になるはずでした。
 しかし、弱小国になり下がったトルコで、あの有名な男が台頭します。青年将校ムスタファ・ケマル! 後に、アタ・チュルク、“トルコの父”と呼ばれるのリーダーの政治手腕により、国家の再建と外敵・ギリシアの排除が達成され、1923年のローザンヌ条約では、旧条約(セーブル条約)の取り決めを覆す形で、現在のトルコの領土が確定しました。この時、シリアの北西部・地中海岸地域もトルコ領となった為、現在でもシリアはこの地域の領有を主張しています。

 アタ・チュルクといえば、トルコの顔です。紙幣は全ての額面にアタ・チュルクの肖像画。役所や学校には必ずアタ・チュルクの肖像画。トルコを旅していて、アタ・チュルクの顔を見ない日は、まずありません。アタ・チュルクを否定することは不敬罪にあたります(多分、現在でも)。確かに、このトルコの父は、偉業を達成し、現在のトルコを導いた有能な指導者だったようです。
 アタ・チュルクが目指した、新しいトルコは、ヨーロッパ的なトルコ。ちょうど、明治期の日本のようなものです。西洋列強に追いつけと富国強兵に励んでたでしょう?日本に通ずるのは、もうひとつあります。それは英国の影響。当時、ロシアと仲が悪かった英国は、トルコを強くすることで、ロシアの拡大を阻止したかった。日本も日英同盟なんてものを結びましたよね?そんな英国の影響もあって、トルコは、敗戦国ながら、徐々に力を取り戻していきます。
 アタ・チュルクの指導は、彼が没する1938年まで続き、その理想は、その後も受け継がれました。80数年経った今でも変わりません。トルコは、ヨーロッパになることを目指しています。EUが発足した際、トルコは、真っ先に将来の加盟希望を述べました。2005年には、EUのお偉いさんが、トルコのEU加盟に関して、正式な手続きの検討を始める、と言うに至りました。


 が!?トルコのEU加盟には、大きな大きな壁があります。結論から申しますと、EUの主要国は、トルコに、EUに加盟して欲しくないのです。


 EU主要国がいうトルコの問題点とは・・・? 


続きを読む
スポンサーサイト

さよならアジア 

6月22日 旅立ちから567日、走行2万3950kmでした。

 アジアとヨーロッパが交差する街・イスタンブール。この街は、98年以来、度々訪れている私が最も良く知る街のひとつ。そのイスタンブールの街並みが、強烈な輝きを放っていました・・・。

 アジア最後の一日、緑深い黒海沿岸の丘陵地帯を走り抜け、ボスポラス海峡が目の前に現れた時、不思議な感覚に襲われました。自転車を停め、後ろを振り向くと、森へと続く長い下り坂が・・・。

 この道が、遥かアジアの東の果て、1年半前に上陸した中国・秦皇島の港と繋がってるんだ!

 当たり前のことかも知れませんが、道は繋がっていたんです。アジアは私が暮らす大地。日本は島国ですが、確かにアジアの国です。私の故郷・福岡は、日本の他のどの都市よりもアジアな街。私は、アジアに暮らしているんですよ。

 強烈な6月の太陽を受け、キラキラと輝くボスポラスの海面を見ながら、一気にイスタンブールのアジア側市街地を駆け抜けました。
 イスタンブールは、ボスポラス海峡を挟み、アジア側とヨーロッパ側にまたがる、世界でも類を見ないつくりの街です。『文明の交差点』『大陸の交差点』『アジアとヨーロッパが交差する街』旅人の心をくすぐる街、イスタンブール。私がアジアの旅のゴールに選んだのは、アジア側市街地の南西に位置するハレム地区!

 アジア側の古くて狭い道路を走り、午後5時45分、ハレムのフェリー乗り場に到着しました。ここが私のアジアの終着点。
 フェリーに乗り込めば、海峡の向こう側、ヨーロッパ側のイスタンブールまでは、30分ほどです。そのままフェリーに乗り込んでも良かったのですが、日没までアジアで過ごすことにしました。

 夏至の長い1日は、本当に長い1日でした。海辺のベンチに腰掛けた私の前には、ヨーロッパ側イスタンブールの街並み。旧市街スルタン・アフメット地区にそびえる3つの大建造物、ブルー・モスク、アヤソフィア、トプカプ宮殿。金角湾にかかるガラタ橋、その北に広がる古い街並み。それらが真っ黒なシルエットとなり、空と海がオレンジ色に染まり・・・、午後8時30分、アジアで過ごした最後の1日が終わりました。

 「ありがとう」

 真っ赤な太陽と、アジアの大地にお別れを告げ、フェリーに乗り込みヨーロッパへと渡りました。徐々に迫ってくるヨーロッパ側イスタンブールの街並みは、夜の訪れに際しても、強い光の中にありました。美しい!私が過去に過ごした、どのイスタンブールよりも美しい!!

 これから始まるヨーロッパの旅を思うと、興奮を抑えることができませんでした。数百人の乗客の中で、人一倍目立っていた私ですが、上陸時は、とんでもなく目立ってしまいました。何と叫んだかは内緒です。というか、忘れました・・・。

 アジアの旅が終わり、ヨーロッパの旅が始まりました。でも、どちらもユーラシア大陸です。私がこの大陸で目指すのは、ユーラシア大陸最西端・ポルトガルのロカ岬!! まだまだ先は長いですが、ひとまずここイスタンブールで、心身を癒したいと思います。


 さようなら、アジアの大地よ。3年後ぐらいに帰ってくるからね☆

WJC0708-Top.jpg
写真)アジアのゴール、ハレムからヨーロッパ側イスタンブールの街並みを望む。

イスタンブールは射程距離! 

6月18日 カッパドキアのギョレメから5日走って、ベイパサリ(Beypasari)という町まで来ました。アンカラから西に100kmぐらいのところ。

 地図を見て、大きくなく、小さくもない町っぽかったので、安いホテルがあるだろう!と来てみましたが・・・、どうやら、この町は観光地らしい・・・。木造の古い家屋がチラホラと見え、外国人の姿はないけど、トルコ人観光客の姿はある・・・。宿はどこも小奇麗で、30新トルコリラ(2700円)が相場。

 痛い!!

 けど、もう5日間もシャワーなしの旅なんて、耐えられない!!

 宿のオヤジと長い交渉の末、25新トルコリラでシャワー付きの部屋に泊まることになりました。

 この町から、イスタンブールまでは、順調に走って4日間。途中、寄り道すると思うので、5日間でしょう。6月23日には、アジア横断の旅も終りを迎えます★

カッパドキアでのんびり中 

6月13日 まだカッパドキアです・・・。

ゼルヴェは、しめじ畑 

ラブバレーは、アスパラガス畑 

ギョレメ村は、たけのこの谷 

ウチヒサールの城は、スイス・チーズ 

 カッパドキア、ギョレメの近郊は、奇岩の宝庫です。予定していた5泊を過ぎましたが、今日もギョレメに留まることになりそうです。

写真を4枚紹介します。どれが『しめじ』で、どれが『アスパラガス』で、どれが『たけのこ』で、どれが『チーズ』でしょうか?解りますよね??


R0165670.jpg

R0165612.jpg

R0165704.jpg

R0165737.jpg

カッパドキアに到着 

6月8日 トルコの有名な観光地・カッパドキアの中心に位置する町・ギョレメに到着しました。ネムルート山以降、根性の走行が続いたので、この町で3~4泊のんびりします。

 この町は、2001年初秋以来の訪問。6年ぶりです。しっかし・・・、小奇麗な町になったもんだ・・・。もともと、観光地なので、キレイなところなのですが、更に観光地化が進んでいて、町の中心部なんか、更にお洒落になっています。 もともと、このギョレメは、『村』なんですけどね、もう私は村とは呼ばない!『町』です、町!

 でも、ここの良さは変わりません。竹の子のような奇岩が林立する緩やかな谷間に広がる村。古い家々は、奇岩や岩の斜面に横穴を掘って、穴居住宅になっています。観光客用のゲストハウスもケーブ・ルーム(穴倉部屋)が売りです。私が泊まっている宿も、全部屋横穴式住居です。薄暗い部屋の中は、ひんやりしてて涼しいのですが・・・、洗濯物の部屋干しには向きません。まぁ、外は強烈な日差しですから、部屋に干す必要もありませんが(笑)

 そんなこんなで、カッパドキア、やっぱり良いところ☆

20070613213733.jpg

写真)これはギョレメから5kmのゼルヴェという地域。ここはキノコ岩の森です。
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。