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さよなら中国!! 

12月27日 長かった中国の旅は終わりました。

 目覚めはよし!なんだか朝から興奮気味の私。今日は国境越えの日ですからね! 国境を越えるのなんて、2006年6月依頼、約7ヶ月ぶりです。

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写真1)こんなとこでキャンプしてました。

 朝食はオートミール。オートミールもカシュガルで大量に買い込んできたので、沢山食べて、少しでも荷物を減らさないと・・・。たっぷりと胃袋に詰め込んで、10時半、出発です。道は起伏のある山岳地帯です。国境のイルケシュタムは、ガイドブックには、イルケシュタム・パス(峠)と書かれているので、もしかしたら、まだこの先も登り続けることになるのかも?

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写真2)このあたり、ラクダさんが多いんですよ。今日も放牧のラクダの群れに遭遇!

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写真3)この坂の向こうかな??そろそろ国境の施設が見えてきてもおかしくない距離だけど・・・

 緩やかな坂を上り切ると、長い下り坂になりました。 『あららら・・・、下っちゃってるよ・・・』 下り坂の向こうには、純白の雪山が聳えていました。まさか、あの雪山のどこかが、イルケシュタム峠ではないでしょうね??そりゃ、ちょっと厳し過ぎますよ!?

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写真4)下りきると、大きな川に突き当たった。川の向こうには、何やら、国境施設らしき建物群!!

 どうやら、向こうの河岸に見えているのが、国境施設のようです。橋を渡り、川上に少し走ると、見えてきました!建物群!明らかに国境らしき場所です。通りすがりの人に確認。「ここはイルケシュタムですか?」返事は、「そうだよ」。なぁ~んだ、峠じゃなかったんだ。良かった良かった。地図と方角を確認すると、どうやらこの河に沿って西に走れば、キルギスタンのようです。

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写真5)中華人民共和国・イルケシュタム口岸

 イルケシュタムの町に入ると、食堂や商店が数軒ならんでいました。時計は1時を回ったところ。とりあえず、国境ゲートの確認に行きます。立派な建物の前には、空の車が沢山停まっていましたが、国境施設にはひと気がない・・・。どうやら、昼休みのようです。私も昼食とすることに。手持ちの人民元は、昨日の時点で36元になっていましたが・・・、トラベラーズチェックの束の中から、100元札が見つかったので、今136元も持っています中国最後の食事ですから、豪勢に行きましょうか!

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写真6)中国最後の食事はコレ!豚の角煮20元、白菜炒め10元、白米2元。

 これからしばらく、中央アジア~イラン~トルコと、5ヶ月ぐらい豚肉なし生活です。この豚の角煮の美味しかったこと、美味しかったこと!これでしばらく豚なしでも平気でしょう、きっと。たらふく食べた後、小さな売店で4元分のお菓子を購入して、残りちょうど100元。中国の最高額紙幣である100元札なら、キルギスでも両替できるでしょうから、これは使わずキープしとくことに。
 午後3時、国境職員の昼休みが終わる時間に合わせて、国境ゲートへと向かいました。3時15分ごろにようやくやって来た職員たち。私の自転車を見るなり、「自転車で行くの?大変だよ?」と・・・。大変なのは知っています。この先、キルギスに入国すると、4~5日間は、厳しい山岳地帯の走行が控えています。「大丈夫だよ、心配ありがとう。」 

 出国手続きは、至って簡単でした。荷物チェックも何もなく、ただパスポートに出国のスタンプを貰っただけ。 『あぁ・・・、これで中国ともお別れかぁ~・・・』 ウイグル人の国境のお役人たちに、さよならを言い、国境施設の反対側に出ました。さぁ、次はキルギスの入国手続きです!!国境越えって、なんでこんなに感慨深いんでしょう。過去に何十回も陸路国境越えを経験していますが、今回は、10ヶ月近い滞在となった中国国の後ですから、特別感慨深く感じます。 

 さよなら、中国!! 濃厚な日々をありがとう!! またいつか、来るよ!!
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ワッシンギットン!ヌルヨック! 

12月26日 ワッシンギットン? ヌルヨック?? 

 寒い朝の気温は、氷点下10℃でした。思ったより冷え込まなかった。昨晩残しておいたラーメンの汁は、すっかり凍っていました。とろ火でゆっくり融かし、沸騰したところで、お粥用の乾燥米を入れます。これで、ラーメンお粥の出来上がり。昨晩作った紅茶は、僅かに600ml・・・、朝食の時はほとんど飲みませんでした。

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写真1)こんなところにテント張ってました。海抜3000m。

 走り初めて1kmほどで、峠の頂上に至りました。あとは下るだけ!と思ったら、下り始めてすぐにまた上り。どうやら2つのピークがある峠のようです。2つ目のピークを越えると、長い緩やかな下りになりました。上りながらチビチビ飲んでいた紅茶は、もう残り僅か。幸い、この先、下り終えて20kmほどのところに、ウルグハットという町があります。このまま無給水でも、大丈夫でしょう・・・

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写真2)峠の頂上付近で、巨大な鳥に遭遇!!翼を広げると、2m近くあるように見えました。何でしょう?この鳥。

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写真3)今日も乾いた大地が続きます。あぁ~・・・、喉乾いてきた・・・。

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写真4)お前さんはいいねぇ。喉、乾かないの?

 すっかり、喉が渇ききったところで、ようやくウルグハットの町に到着。町の入り口に検問所がありましたが、パスポートを見るだけなので 何も臆する必要はありません。逆に、国境が近いということを感じ、気合が入りました。検問所の向こうには、数軒の食堂と商店がある小さな広場がありました。どうやら、ここが町の中心らしい。町っていうか、村ですね。
 村人たちが不思議そうに見つめる中、私が真っ先に向かったのは、商店!!コーラか何かを1リットルぐらいグビグビっと飲みたい!! 擦れた声で、店のおばさん、「そこのコーラ2本ちょうだい!」と言うと、おばさんちょっと驚いた様子。何?なんで??

おばさん 「あんた何ジンだい?あたしゃ、てっきり、キルギス族だと思ってたけど、
      中国語話すもんだから・・・、いや?でも、漢族じゃないね?」
心 「日本人ですよ。おばさんは?キルギス族?」
おばさん 「そうだよ。」


 キルギス人(族)の顔立ちは・・・、うぅ~ん・・・なんと言えばよいか・・・、日本人に近い顔立ちです。ウイグル族よりも、日本人に近く、漢族よりも日本人に近いかな? 何がどうって、まだ説明は難しいです。キルギスに行って、キルギス人をよぉ~く観察すれば、その特徴がつかめるようになるでしょう、きっと。
 購入したコーラは、コカコーラだとばかり思っていましたが、一気に飲み干すと、まずぅ~い!ケミカルな後味がしました。ラベルを見ると、今までに見たこともないような、似非コーラ。不味いけど・・・、2本目も一気に飲み干し、喉の乾きは癒えました。次は、空腹を満たさなければ!
 広場の外れの小さな食堂に入りました。注文したのはラグ麺。待っている間に、ポットのお湯を貰って、ボトル5本文の紅茶を作りました。これで、明日の午前中ぐらいまでは大丈夫でしょう。15分ほどで出てきた大盛りラグ麺を貪り食い、満腹になったところでホッと一息。周囲の人々と会話をする余裕も出てきました。
 食堂の経営者家族は、キルギス族。隣で食べてたお客2人もキルギス族。近所の商店から私を見にやって来た人々も、み~んなキルギス族。お互いに片言の中国語での会話をしていると、店の奥に座っていた少女が、何やら呟いているのに気が付きました。

少女 「ワッシンギットン・・・、ワッシンギットン・・・?」
心  「ん?なぁに?? ワッシン??何?」
少女 「ヌルヨック! ワッシンギットン!」
心  「ヌルヨック?ワッシンギットン??」
少女 「アメリカ!ワッシンギットン!」

心  「あっ!! アメリカ!ワシントンね! あっ、ニューヨーク!!」

少女 「アメリカ?」
心  「あのね、お兄ちゃん、アメリカ人じゃないんだよ。日本人、日本人。」

 彼女が、本気で私をアメリカ人だと思っていたのかどうかは解りませんが、このような滅多に外国人が訪れないような地域では、コッテコテの日本人顔であっても、英語を話したというだけで、アメリカ人と言われることが間々あります。
 それにしても、ワッシンギットンって・・・、よく聞けば、ワシントンに聞こえなくなくもありませんが、彼女の発音はスタッカートが聞いていて、ワシントンだとなかなか気が付きませんでした。英語のスペル『WASHINGTON』と『NEW YORK』をキルギス語の発音で読み上げると、こうなるのかな?ただたんに、彼女が勘違いしているのかな??

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写真5)キルギス族の子ども達。一番左の子が、ワッシンギットンの子。

 お腹も満たされ、飲み物も補給し、楽しい交流で心も和んだところで、走行再開!再び西に向かって走り出しました。道は、狭い谷間に入り、緩やか~な登り続けています。走りは快調!この調子だったら、国境の町までたどり着けるかも??国境までは、70kmほどのはずです。走行距離は、50km近くに達していました。
 午後5時半、吉根(ジーコン)という村に達しました。ここもキルギス族の村です。国境手前最後の村らしいので、ここで宿を取ることも考えましたが、それらしい建物が見当たらない・・・。この先は、ひとけのない山道でしょうから、今夜もキャンプにしましょう。

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写真6)ジーコン手前で、周囲の山々も、雪化粧に変わった・・・。上りが厳しくなり、国境到達は早くも断念。

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写真7)羊を追い、馬を操る村人たち。キルギスですねぇ~!!

 ジーコンを過ぎると、国境の手前最後の峠(2950m)に差し掛かりました。標高差は200mほどで、なんなくクリア。峠の向こう側には、何もない平原と雪山が聳えていました。もう時計は7時です。道路から300mほど平原に入ったところにテントを設営。日没後の気温は、氷点下8℃。まぁ、このくらいなら今夜も大丈夫でしょう。
 夕食は、またラーメン。カシュガルで欲張って大量に高級ラーメン『今麦郎』や『五谷道場』を買い込んできたので、キルギスの厳しい山岳コースに達する前に、少しでも荷物を減らそうと考えてです。本当は、キルギスの山奥で食べるつもりだったんですけどね・・・。

 雪山と星空をしばし眺めた後、寝袋に飛び込みました。国境まではあと20kmです。

雪を溶かして・・・ 

12月25日 雪を溶かしました。

 ちょっと寝坊しましたが、目覚めは上々。朝からテキパキ準備して、荷物を整えたところで、開店間もないインターネットカフェへ。2時間ほどで、全てのネット仕事を終わらせました。時計を見ると・・・、あらら、もうこんな時間?
 もう午後1時近くになっていました。慌てて宿に戻り、チェックアウト。自転車をセッティングしていたら、従業員の女性に色々と中国語で質問されました。あまり漢語は上手ではありませんが、とてもフレンドリーな女性。ウイグル人かな?と思って聞いてみたら、キルギス族だって!! そうだそうだ!このあたりは、クルグスー・キルギス族自治州なんですよ、そういえば。

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写真1)漢族の女性従業員が撮った、私とキルギス族女性従業員。

 今、その南縁をなぞるように走行中の天山の山々周辺には、キルギス族が多く暮らしています。山の北側はキルギスタンですからね。田舎の村々にはキルギス族が多いようですが、町には少ないみたいです。
 午後1時半、ようやく出発!町のスーパーで『タンユェン』という団子の冷凍品(最近のお気に入り)を20元で購入し、ウイグル食堂で昼食も済ませてしまってから、町を出ました。随分と出発が遅くなりましたから、今日は、日没までノンストップです!!

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写真2)今日も天気は晴れ! ちょっと肌寒いけど、快適な走行です。

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写真3)徐々に標高を上げ、小さな峠の手前、カンスーという町を通過。

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写真4)周囲の山々の美しいこと! 『風の谷のナウシカ』のコミック版に出てきそうな、荒涼たる風景です。(って、解りますか?)

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写真5)走りに走って・・・、午後7時、日没です。

 日が暮れるまで走り続け、52kmを走りました。ちょうど、周囲に何もないような寂しい山の中でした。海抜3000mほどの峠の頂上の僅かに手前。ここなら、朝日も早く当たりそうだし、ここでテントを張りましょう。自転車を止め、道路脇のちょっと低くなったところ降ります。汗が引き始めると、急に寒気がしてきました。気温は、氷点下6℃。こりゃ、夜は相当冷え込むな・・・。 
 テントを張り終え、荷物を投げ込み、さぁ、次にするべき事は、水の調達。実は、まったく飲み水がありません・・・。途中、何度か小川を見ましたが、給水することなく、走り続けてきました。日没直後、前方の風景の中に、雪に覆われた斜面が見えたので、「雪を溶かせば良いか!」と、楽観視していました。

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写真6)雪を鍋とバケツにいっぱい集めました。

 どんどんと冷え込むテントの前で雪を鍋に放り込み、ゴウゴウと強い火力で加熱します。10分ほど経って、鍋を開けてみると、「おっ!融けてる!融けてる!!」 ・・・けど、「汚いなぁ~!!」 鍋の中の水は、灰色に濁っていて、小さな植物の枝葉が沢山浮かんでいました。次から次に雪を鍋に注ぎ足して、鍋一杯のぬるま湯ができました。一旦火から下ろし、ろ過して、もうひとつの鍋に戻します。雪を溶かした鍋の底には、粘土質の細かい粒子が溜まり、ろ過器のフィルターも灰色の粒子で目詰まりしていました・・・。どうやら、ここいらの雪は・・・、11月末にカシュガルでも雪が降りましたが、あの時に降ったものなのでしょう。3週間以上残っていた雪は、周囲の埃と粘土質の泥水をたっぷり含んだ、ちょっと汚い雪でした・・・。

 いつもなら鍋3杯分ぐらいの水を作って、翌朝の朝食、翌日の飲料水(お茶・紅茶)分も確保しますが、今日は鍋1杯分だけ。ボトル1本分だけの紅茶を作って、残り1リットルのお湯で、ラーメンの夕食。ラーメンの汁は捨てずに、翌朝の朝食に回します水を節約する為の知恵です、知恵。

 冷え込む夜は、深夜で氷点下9℃になっていました。明朝は、氷点下14~15℃になるかも知れません。寝袋2重、上着2重、下着タイツ2重、靴下2重の完全防備で床に就きました。

カシュガルの俺の部屋 

少し大きい文字 カシュガルは7週間近い超長期滞在となりました。その間、ずっと同じホテルに泊まっていました。

 バックパッカーから、ビジネスマン、ツアー客まで幅のある客が泊まる西満(シーマン)ホテル。かつて、ロシア領事館として使われていたところで★★★三ッ星ホテルだったっけな? 星付きの良いホテルです。今のところ、この旅で一番規模が大きく、立派な建物のホテル。広々としたロビーの内装は、中央アジア的(ペルシャ的)装飾が施された柱や壁飾り。フロントには、世界主要都市の時刻を示す時計が6個。フロントのスタッフは(愛想ないが)流暢な英語を操り、客室かかりは愛想も良く印象が良い。

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写真1)色満ホテルの正面玄関

 そのホテルの部屋代ですが・・・、私が泊まっていたのは、最も安い部屋で、20元(300円)です。

 外国人バックパッカー御用達のこのホテルには、外国人用のドミトリーがあるんです。初めの1週間ほどは、3人部屋ドミトリーに泊まっていました。が、その部屋にはコンセントがなく、PC作業をする私は、いちいち部屋の外で電源を探さねばなりませんでした。ホテルの建物が古いので、廊下やロビーにもコンセントはない・・・。そこで、コンセントがある2人部屋ドミトリーに引越しをしました。部屋には窓がなく、ちょっと息苦しいのですが、記録や記憶の整理をするにはある意味よい環境。部屋に缶詰して、PC作業と執筆をしてました。

 ちょうど良い高さの机の上には、PCとコーヒーカップ、書類、お菓子などなどが散乱し・・・、完全に『俺の机』状態。初めの数日は、小ぎれいに使っていましたが、もうひとつのベッドに客が来る気配はないので、次第に、『俺の部屋』化していきました・・・。自転車も部屋に入ってるから、『俺らの部屋』かな。私と相棒・自右衛門号の部屋。

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写真2)ほら・・・、こんな感じ。色満ホテル2号棟315号室『俺の部屋』

 私はバックパッカー3人分ぐらいの荷物を持ち運んでいる上、それらが6つのバッグに別かれて入っているので、いちいち荷物をバッグに片付けたり、出したりが面倒なんです。一度広げたら、宿を出る前日まで広げっぱなしであることが多い。他の旅行者を見てみると、私のような『爆発タイプ』と、『整理整頓タイプ』に極端に別れてる気がします。爆発というのは、私が勝手に使ってる表現ですが、このように荷物や衣類を散乱させることを英語の俗語では、『爆発:explosion』というんです。昔は、私も整理整頓タイプの旅人だったんですけどね・・・。

 完全な個室として使っている部屋ですが、それでも問題はありません。この時期、カシュガルを訪れる観光客なんてごく僅かですから。11月初旬は、けっこう欧米人や日本人観光客が泊まってたんですけど、11月末からは、いても3~4人程度。バックパッカー向けのドミトリーは、20元のシャワー・トイレなしと、30元の風呂・トイレ・テレビ付きの2種類。チェックインの際に、「見比べたい!」という人が多いようで、私が初めに泊まっていた20元の部屋と、30元の立派な部屋を見比べてる人が多かった・・・、のですが・・・。なぜか、12月に入ってから、私の部屋と、30元の立派な部屋を見比べる人が多くなった・・・。もしかしたら、これはホテル側の作戦なのかもしれません。 

客  「一番安い部屋はいくらだい?」
受付「20元ですけど・・・、30元のバス・トイレ・TV付きの部屋もありますよ。」
客  「20元の部屋でいいよ。どうせ2~3泊しかしないんだし。」
受付「そうですか・・・、じゃぁ、両方見比べてはどうですか?20元の部屋は315号室、30元の部屋は300号室です。」

 ってね・・・。で、バックパックを背負った旅行者が、私の部屋を訪れる。

客  「おっ・・・ぉぉ・・・、君がこの部屋に独りで泊まってるのかい?」
心  「あ、はい・・・。あっ!あなたのベッド片付けますんで、どうぞ!どうぞ!」
客  「あっ・・・、あぁ、いいよいいよ、気にしないで。30元の部屋に泊まるから。」

 となる訳です。私が占有しているおかげで、ホテル側は10元の得をしました。きっとこういう作戦なんです。


 長く過ごした部屋を出るのは、少し気が重いものです。荷物をまとめ、すっきりした部屋を見渡すと・・・、なんだか引越しをする時みたいに切ない。次に、この町に来ることがあったら、例え、奥さんと一緒だろうが、子ども連れだろうが、この部屋にまた泊まりたいですね★

どうでもいいけど、クリスマスイブですね 

12月24日 私にゃ全く関係ありませんが、クリスマス・イブですね。

 道路脇の木立の中で目覚めたのは10時(ウイグル時間8時)、日の出の後です。まだ薄暗い内に出発してしまえば、誰にも見つからないだろうと考えていましたが、もう明るいから・・・。氷点下6℃、まだ気温が上がらぬ寒い朝に、早速、訪問者が現れました。近所に住むウイグル人の老人。私はテントの中で起きていた惨事に、慌てふためいていたところでした。昨夕、夕食を摂った食堂で魔法瓶に汲んでおいた水が、漏れ出して、テントの中に大きな氷が張っていました。幸い、寝袋は濡れていませんでしたが、シュラフマットやカバンには、氷がビッシリ付いている・・・。
 テントの前で見学しているおじいさんに、挨拶だけして、ぶつぶつ言いながら、氷を落としていました。ようやく、氷が片付いた時、ふと外を見ると、おじいさんの姿はありません。オートミールを掻き込んだ後、コーヒーを飲もうとしたら・・・、また災難!今度は、コーヒーをテントの中にこぼしてしまいました、500mlの大きなマグカップに並々注いでコーヒーを・・・

あぁ~!もう!!最悪だぁ~!!

 そんなこんなで、出発準備が整ったのが、12時過ぎでした。車道に戻ると、先ほどの老人がたまたま通りかかり、出発を見送ってくれました。目指すは、昨日辿りつけなかったウルチャット!距離は多分、40kmちょっとです。もっと先まで進んでも良いのですが、キルギスに入国すると1週間以上ネット環境がないので、ウルチャットでネットカフェに行っておかねばなりません。寝袋やテントも湿ってるし、今日は、ウルチャットの宿で快適に眠りたい・・・

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写真1)徐々に険しくなる周囲の山々。天山山脈南縁を西に走ります。

 昨日は重かったペダルですが、今日もやはり重い。両腿&両ふくらはぎが、筋肉痛になっています。1年以上旅しているサイクリストがですよ・・・?恥ずかしい・・・。カシュガルで煩っていた腱鞘炎ですが、ハンドルを握っている分には、全く痛みはありません。もう完治してるのかも?
 走り始めて20kmほどで、漢語でウルチャット(ウーチャと発音)を意味する大きな石碑が建つ、町に到着しました。これがウルチャット? …ではありません。ここは、中国・キルギス間の2つの国境、イルケシュタム国境とトルガルト国境の分岐点。北に向かうとトルガルト。西に向かうとイルケシュタムです。トルガルト方面は、未開放地域を通過するため、この町で税関手続きを行わねばならないようです。町には、沢山トラックが停まっていて、トラックの運ちゃん向けの食堂や宿も沢山ありました。

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写真2)昼間っから、ケバブを食べる。

 この小さな町で昼食。ラグ麺と骨付きマトン・ケバブ2本で、15元もしました。せいぜい10元ぐらいだろうと思っていましたが・・・、高いなぁ! 中国滞在もあと3日程度、そろそろ手元の人民元を上手く努力をしなければ、国境を越える前に、お金が尽きてしまう・・・。
 食後、ウルチャットへ向け走行再開。残りは30kmぐらいとのこと。路面は相変わらず良いのですが、徐々に登りがきつくなってきました。海抜は、1900mから、2400mに。500mを緩やかに上り↑、上りきったら、また下りに↓

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写真3)周囲の山々は、木が一本もない乾いた岩の山。

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写真4)乾いた風景にラクダが良く似合う

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写真5)路面は良好。若干の向かい風があったため、長い下りでも時速40km程しかでない・・・。

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写真6)荷物満載の自右衛門号。カバンに入りきらないものが、前後の荷台に縛り付けてあります。

 交通量はあまり多くはありません。時折、『中国海関』と書かれた巨大なコンテナトラックが横を通ります。これは中国税関のトラック。国境周辺の税関施設を結んでいるトラックかな?? 通過する村々に人は少なく、地元民との交流がほとんどない走行が続きました。ハローやニィハオの声も聞こえない・・・。中国の辺境を走っているという印象を強く感じます。
 午後5時、52kmを走ったところで、ウルチャットに到着。ウルチャットは、随分と大きな町のようです。ここいらの県府ですから、インターネットカフェも、宿も困らないでしょう。町の中心に入ると、すぐに網巴(ネットカフェ)の看板と、招待所・旅館などの宿泊施設の看板が目に入りました。
 安そうな招待所に飛び込み、値段交渉。50元と言われたところを、値切って値切って、30元にしましたが、宿の親父さんが「公安に外国人が泊まる旨を報告・手続きに行くから、5元くれ」と。なんで5元なのかは、聞きませんでしたが、おそらく口利き料ってとこでしょう。まぁいいや、5元ぐらい。手元の人民元は、残り150元になりました。まだまだ余裕があります。

 夕暮れ時、買い物がてら、町を歩いてみました。どこも新しい中国風の建物ばかりで、ウイグル情緒のある建物は一切ありません。もともと何もなかったところにできた新しい町なのでしょう。町を歩いている人も漢族が多い・・・。
 夕食は、町の中華食堂へ。中国語で注文し、黙って食べていたので、誰も私を外国人だと思わなかったようです。食事をして、スーパーでこの先2~3日分のおやつを買って、手元には、120元。まだまだ余裕? 9時頃からインターネットカフェに篭りましたが、全ての用事は済みませんでした。また明朝行かなくては・・・。
 宿に帰る途中、深夜まで営業していたスーパーに入り、ヨーグルト味のお気に入りのアイスクリームを購入。ブラブラと店内を歩いていたら、800mlサイズの魔法瓶を発見!自転車のボトルケージに納まりそうなサイズです・・・。値札を見ると、58元と書いてある・・・。5分ほど迷って、ご購入ぅ~!! 手元のお金は、55元に・・・。

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写真7)ウルチャットの町中心には、いかにも、最近開発が進んだ町です!という風な味気ない中国風の広場が・・・。

 宿に戻ったのは、深夜を回ってから。到着後すぐに部屋で広げていたシュラフやテントはすっかり乾いていました。荷物をまとめて、ちょこっとパソコンを弄っていたら、時計は3時(実質的な時間=ウイグル時間では1時)になっていました。明日も移動なので、慌てて床に就きました。 zzzZZZ・・・

さよなら・カシュガル!! 

12月23日 47泊したカシュガルを出発!!

 昨晩も遅くまでネットカフェに篭っていた上、久々の移動で荷造りに手間取ったので・・・、起きたのは12時半(ウイグル時間10時半)でした。慌てて身支度を整え、中途半端で投げ出していた荷造りを終わらせ、14時ちょうどにチェックアウト。長い間お世話になっていたルームキーパーのお姉ちゃんたちに、お別れを言って、カシュガルで捨てていく不要な物でまだまだ使える物をカギ番の兄ちゃんにあげて、ホテルを出発!!

 カシュガル最後の食事を摂りに、向かったのは、当然!いつもの美食街。ポウズ屋のおばちゃんは、残念ながら不在。2~3日前に真っ赤な顔してゴホゴボ言いながら仕事してましたから・・・、風邪だったのでしょう。隣の快餐の兄ちゃんは、いつも通り愛想良く、出迎えてくれました。やはり、最後も豚足を追加しました。チベットでボロボロになっていたお肌も、この7週間で随分キレイになりました。豚足のコラーゲンのおかげでしょう☆ 満腹になったところで、 「再見!ありがとね!!」

 満腹になった後向かったのは郵便局。日本の実家宛に、7kgぐらいの小包を送りました。これでずいぶん荷物が減ったと思うでしょう? そうでもないんです。カシュガルで買い足した物が大量にあり、自転車は、過去最重量です・・・。更に、余っていた中国の切手を使い切るべく、絵葉書と封筒を計4通送りました。これにて全ての用事が終了。

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写真1)カシュガル出発前に、立ち寄った最後の場所は、やはりココ。

 最後に、エイティガール寺院前の広場で記念撮影。時計を見ると午後2時(ウイグル時間12時)を回っていました。ちょっと遅いけど、出発!!午後8時の日没までに、80kmを走れるかな??目指すは、ウルチャットという小さな町!
 適当にカシュガル市街地を西に走り、静かな郊外の住宅街を抜け、勘を頼りに走っていると、大きな国道らしき道にあたりました。たまたまいた警官に「ウルチャットはどっち?」と聞くと、真北へ伸びる国道を指差します。ウルチャットまでは、北を迂回する国道と、北西に真っ直ぐの省道がありますが・・・、国道の方が走りやすいという風なことを教えてくれました。
 滑らかな真新しい舗装の国道を走り出し、走行10kmを越えたところで、嫌な予感・・・。進行方向が北から徐々に東よりになって・・・、ついに真東になりました。そういえば、この国道314号線は、カシュガルの北をかすめていたような・・・?カシュガル市街を西に走り出し、郊外に出たところで北に走り、更に東に走り・・・、カシュガル市街のすぐ真北に至りました。エイティガールから真北に来ていれば、3~4kmの距離です。15km以上、無駄に走ってしまいました。はぁ~・・・、今日のウルチャット到着は無理だな・・・。

 気を取り直して、国道を走り続けます。国道の料金所で、 「自転車通行禁止!」と止められましたが、そんなわけはない。今まで、止められたことは一度もありません。料金所のお姉さんは、新人っぽかったので、サイクリストを見たのは初めてなのかも?制止の指示を無視して、北へ。

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写真2)国道314号線。あれ・・・?東に向かっているような・・・

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写真3カシュガル郊外の北側には、ゴツゴツとした岩の山々が横たわっている。

 小さな峰を右手にみながら、徐々に進路は西寄りに。久しぶりの走りは、快調!!・・・・ではありません。やっぱり、運動不足ですね・・・。なんとなくペダルが重い。目では感じられない程度に、緩やかぁ~・・・に登っているのですが、それを差し引いても、ペダルが重い・・・。
 走行30km地点で、ウルチャット・キルギス国境方面の分岐点に差し掛かりました。国道から、省道に入り、進路は真西へ。日が傾き、薄暗くなってきたところで、小さな町に至りました。探せば宿もありそうなところですが、夕食(ラグ麺3元)だけで、後にしました。15kmのロスがあるので、実質カシュガルから25km程しか進んでいないんです。もっと、走ろう!!
 いよいよ日が暮れた田舎道を、ライトの灯りだけを頼りに走ります。空には、2日目の弱々しい光を放つ、下弦の月。ライトの届く範囲のものしか見えないので、ゆっくりと走り続けました。
 午後9時を回り、テントを張る場所を探し始めましたが、なかなか見つからない。道の両脇には、何も植わっていない冬の畑が広がり、民家も点在しています。人目に付かない場所なんてない・・・。そもそも、この暗さでは、人目に付かないような場所は、私の目にも入らないんです。
 仕方なく、道路脇の木が多いところで隠れるようにテントを張りました。道路までは20mほどしかありません。テントを張った後、念のため、道路から見えないかどうか?車道に戻って確認。オレンジの派手なテントが、視界に入りますが、こんな何もないような郊外ですから、車はスピード出して走ってくるに違いありません。わざわざ停まってまで見に来る輩はいないでしょう?
 ・・・なんて思っていたら、目の前に現れた2台のバイク。乗っていたのは、若いウイグル人青年3人でした。あっちゃ~・・・、車道で見つかっちまった・・・。「何ジンだ?何やってんだ?」などなど、陽気に聞いてきますが、冷たく返します。「頼むからさぁ、あっち行ってくれ。な!あっち行けよ!!」 テントが見つかると、厄介です・・・。
 ようやく3人を追い払ったところで、テントへ。たまに聞こえる車の音を気にしながら、寝袋に入っていると、車が停車した音・・・。続いて、何やらウイグル語が飛んできました。無視していましたが、パキパキと枯葉を踏む音が近付いてきます。慌ててテントから顔を出すと、さっきとは違う3人組の青年。テントを触ったり、自転車を触ったりしながら、私に色々質問してきます・・・。良くない状況です。中国語で、丁寧に状況を説明し、ここでキャンプをするから、静かに寝かせてくれと懇願します。が、興味深々な若者たちは、すぐには去りません。 

心 「わかったよ!!お前らが、行かないんだったら、俺がどっか行く!! ほら! テント畳むから、どいてくれ!!」
 本気でこの場を去るつもりで、テントの撤収を始めました。その方が良いの考えてです。彼らに悪意はありませんが、万が一悪意のある輩がテントを見つけたら?こんなに簡単に見つかるようでは、危険です・・・。テントのポールを抜いたことろで、青年たちは、何か自分たちが悪いことをしていると感じ始めたのか?私に謝りながら、「OK!OK!ここで寝て!ここで!」と言い始めました。彼らは立ち去り、また独りになってから、しばし考えた・・・。『まぁ、いいか。大丈夫だろう・・・』

 結局この場所でテント泊となりました。久しぶりの移動に、久しぶりのテント泊。深夜の気温は氷点下3℃でした。疲れと、緊張が解けた心の緩みで、深い眠りに・・・zzzZZZ

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写真4)翌朝撮影。この木々の一番向こう側にテントを張ってました。こりゃ、見つかるよね・・・。

安東さん、今度は極寒の大空へ。 

 ひとつ前のエントリーで安東博正さんの話が出たので、安東さんの宣伝をしときます。

 安東さんとは、東京で何度かお会いしていて、現在もメールでたまにやりとりしてます。私と変わらないぐらいの体系の方ですが、その肉体の凄さたるや!? 東京の晩秋、私がコートを着始めたような時期に、安東さんはTシャツでしたよ(笑) 寒さに強くなり過ぎです・・・
 私の良きアドバイザーのひとりです。そういえば、この冬は、熱気球で太平洋横断に挑戦するらしいですよ。上空9000mのジェット気流に乗って、8000~9000kmをひとっ跳び!!厳冬期にエベレスト山頂と同じ高さを飛ぶ訳ですから、とんでもない寒さでしょう・・・

でも安東さんだから大丈夫だと思います。

 パートナーは、熱気球冒険の第一人者・神田道夫さん。テイクオフは、07年1~2月の条件の気象条件が良い日だそうです。その頃私は、ウズベキスタン辺りかな。気温は、氷点下10℃前後ってとこでしょう。

 おふたりのチャレンジが成功することと、安全な航行を祈ってます。

 安東さんのホームページは以下。過去の冒険の報告書と、今回の熱気球太平洋横断の計画書あり。
 →http://www.tim.hi-ho.ne.jp/andow/

氷点下20℃の対策は万全です。 

 南国九州育ちの私。28年生きてきて、氷点下の冬を経験するのは、これが2度目です。いや、3度目と言うべきかな?

1度目は、旅立って初めの1ヶ月半。韓国と中国・河北省。05年12月初旬~06年1月中旬は、ほぼ氷点下でした。体感した最低気温は、ソウルの氷点下12℃。走行時の最低気温は、秦皇島の氷点下8℃。  当時は、寒い寒い言ってましたが、振り返ると大したことのない気温です。

2度目は、06年10月中旬~11月初旬の西チベットとアクサイチン。海抜5000mの世界でのキャンプ主体の移動でした。朝晩の冷え込みは、相当厳しかった・・・。最も冷えた朝は、氷点下14~15℃。走行時の最低気温は、氷点下10℃くらい。宿泊できる集落を結びながら進む方法をとったり、気温が下がらないであろう場所を探してテントを張る努力をしました。結果、疲弊することはなく、過酷な環境を存分に楽しむことができました。


3度目は、この先に伸びているシルクロードの冬★気温は過去2回経験した冬を更に下回るでしょう。


 私は、無謀な冒険野郎ではありません。計画的で臆病な冒険野郎です。3度目の氷点下の冬を乗り切る為、それ相応の対策を整えました。

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写真1)魔法瓶です。

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写真2)手製のつま先ウォーマー付きペダル。

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写真3)帽子とマスクです。写っているのは、私です。通りすがりのテロリストではありません。

 魔法瓶の必要性は、アクサイチンで知りました。常に氷点下なので、水の確保が大変だったんです。凍った川の氷を割り、その下にある水を汲みますが、その水もすぐに凍り始めてしまう・・・。夕食の時に沸かした翌日用の飲料水は、翌朝には凍っている・・・。走っている時は、600mlの水筒を上着の内ポケットに入れて走っていました。自転車のボトルケージに挿しておくと凍っちゃうからです。
 写真に写ってるのは4本ですが、他にもう1本(③と同じもの)持っています。合計で3.8リットルの水を凍らせることなく運べます。②は、内蓋を紛失してしまい(盗まれた?)、液体を運ぶことはできませんが、固形物、例えば野菜などの入れ物に使うつもりです。野菜も凍っちゃいますからね。③は2本持っていますが、この魔法瓶は口径が10cmと大きく、液体だけでなく、スープなども入れることができます。④はカップタイプで、ボトルケージに入るサイズ(600ml)。走行時は、他の大きなポットから直接吸水せず、この小さいカップをコップ代わりに使います。

 つま先ウォーマーは、昨冬、韓国&河北省を走っていた時に、考え付きました。体や手足を温かく保つことは簡単ですが、つま先は冷えやすい・・・。アクサイチンは登山靴でペダルを分でいたので、厚手の靴下2枚を重ね履きして何とか耐えることができました。が、この先は、登山靴よりも薄手のトレッキングシューズを履いて走ります。このトレッキングシューズは、韓国&河北省で使っていたものと同じですが、当時は氷点下5℃ぐらいになると、つま先の感覚がなくなるぐらいまで冷えてしまっていました。そのままだと霜焼けになると思ったので、冷え込んだ日は、つま先の感覚がなくなると、数百m自転車を押して歩いて指の血行を促し、5kmほど自転車で走っては、また数百m押す、という風にしていました。
 この先は、霜焼けなんて生ぬるい世界ではありません。氷点下20℃ですからねぇ・・・、凍傷で指を失ってもおかしくない気温です。このつま先ウォーマーに加え、厚手の靴下2枚重ね履きしてれば、なんとかなると思います。それでもダメだったら、地元民が履いてる(であろう)暖かいブーツでも買います。

 帽子とマスクで、首から上も万全です。風を通さない素材のマスク(目だけ開いて、肩口までの長さ)を被り、頭には厚手のニット帽を被り、更にアウターのフードを着用。顔の凍傷にもならないでしょうし、冷たい空気で喉をやられないでしょうし、肩口が冷えることもないでしょう。
 問題は、自分の呼気に含まれる湿気。マスクの口の部分は3cm角ぐらいメッシュ素材になっていますが、それでもマスク内側に湿気が篭ると思われる・・・。サングラスの内側が雲ってしまう可能性大。走って風を受けている時は良いのですが、停止すると数秒でサングラスが曇り始めるんです。私のサングラスは、偏光レンズと目の間に、もう1枚レンズ(視度調節レンズ、いわるゆメガネ)が付いていて、それぞれのレンズの間に1mmぐらいの空間があるので、一度曇るとなかなかクリアにならない・・・。
 実際に走り始めて、湿気がうまく逃げないようであれば、口元のメッシュを少し裂き、それでもダメだったら、スキー用のゴーグルを買います。普通のメガネをかけて、それごと覆ってしまうゴーグルをかければ良いのです。キルギスにはスキー場が沢山あるらしいので、ゴーグルぐらい簡単に手に入るでしょう。

 防寒着も補強しました。写真はありませんが、モコモコのタイツ1枚、ニーウォーマー(膝あて)1セット、厚手のいわゆる婆シャツ&婆タイツ1セット、フリース(風)のトレーナー1枚、内側がモコモコの靴下5セット、をカシュガルで購入しました。靴下は持っていたものと合わせると9セットになりましたが、2枚重ねで走るので、実質4.5セットです。靴下はなるべく毎日変えてます。足が臭いと寝袋が臭くなっちゃいますから。
 以前の装備でも、氷点下10℃前後のアクサイチンの夜を快適に過ごせましたが、快適に眠ることはできませんでした。持ってる寝袋2枚を重ねても、氷点下15℃ぐらいまでしか対応できないのです。となると、沢山着て寝るしかない。アクサイチンでは、登山ジャケットやサイクリング用の丈夫なズボンを着て寝るのは寝苦しいので、 『婆(爺?かな)シャツ&タイツの上に、モコモコタイツとフリーストレーナー、足元は靴下2枚重ね!』で眠りたいと思います。それでも寒くて眠れなかったら・・・、新しい寝袋を・・・・、いや!そんなに寒いんだったら、キャンプをしなけりゃ良い!それが最善策★


 基本的にキャンプはしないつもりです。キルギスの山岳地帯や、ウズベキスタンの砂漠地帯では、仕方なくすることになると思いますが、氷点下20℃を切るような場所では、キャンプは絶対にしたくない。キャンプしなくても良いように走行距離とルートを考えます。

 最後に、知識や精神面での準備としては・・・。知人の冒険家・安東浩正さん(厳冬期シベリアを自転車で横断!!第8回植村直己冒険賞受賞者)から聞いた話をよぉ~く思い出し、登山家を自称する旅行者に雪上キャンプの方法を教わり、カシュガルの登山協会所属のウイグル人観光ガイド(キルギスによく仕事でいくらしい)にキルギスの山道の話を聞きました。

 あっ!それともうひとつ!これは最も拘って万全を期しました!!たぁ~っぷり8kg分の皮下脂肪を増やしたんです★ カシュガル滞在7週間で、食べて食べて食べて、現在の体重は、66.5kg。チベットステージ後半の2ヶ月で激痩せしてしまっていたので、意識的に体重を増やしました。私のベスト体重は62kgぐらいですが、この冬は65kgを切らないように努めます。


 どうですか?無謀な旅ではないでしょう?家族・友人・知人・支援者の皆さん、安心しましたか??

 万全を期して、極寒の中央アジアへ走り出すわけですよ★ 計画的で臆病な冒険野郎ですから、ご安心を!!

極寒の素敵な素敵な中央アジアを走ります。 

 真冬の東南アジアを横断すると決めたのは、11月7日のカシュガル到着後、数日経ってからのこと。

 12月中に通行止めになるという噂だった中国・キルギス国境の峠道が、通年通行が可能だと言う事を知り、予定変更を考え始めました。峠が12月で閉じるならば、カシュガルでのんびりしている暇はありませんでした。『11月中にキルギスに入国→ 厳冬が訪れる前に山国キルギスを脱出→ 比較的寒くない(たったの氷点下15℃程度)カザフスタン南部&ウズベキスタンで12月中旬~2月中旬を過ごす』という予定でしたが・・・

 急がなくて良いんだったら、カシュガルでのんびりして、極寒の中央アジアを悠々と越えてやろう!!

 と予定変更決定☆ 国境が真冬でも通過可能だと知ったことがきっかけですが、理由は他にもあります。

 Mサイクリストの性ですかね・・・。 10月末にアクサイチン高原で体験した、極寒の銀世界と、過酷な環境が懐かしくなってきたんです。過酷な状況を楽しむ才能とでも言いましょうか。第三の極地とも呼ばれるチベット高原で厳冬(まだあれは初冬レベルですが)を体験し、晩秋の暖かいタリム盆地に至り、ぬくぬくと過ごしている内に湧いてきた衝動『またあの厳しい世界に戻りたいなぁ~』って・・・。

 長い目で旅行全体を考えて、というのも理由です。旅立ちから1年が経過し、想定以上にお金を使っていることを痛感しました。旅のペースを落として、少々ストイックにやった方が、出るお金をセーブできるのではないか?と。倹約ケチケチ生活をする必要はありませんが、少しだけ、少ぉ~しだけ、旅の出費を減らす努力が必要です。
 更に、「極寒の中央アジアに耐えられなくなったら、ウズベキスタンからインドに飛行機で飛ぼう!」と考えていたのですが、航空券代も安くはない・・・・。『逃げ』のオプションをなくすことで、極寒を楽しもう!という気持ちになりました。

 それに、常々考えていることですが・・・。数年単位で旅をする私は、各国各地域でハイシーズン(ベストシーズン)を選びながら進むことは不可能です。むしろ、私はオフシーズンと呼ばれる、観光客が少ない時期の方が好きなんです。観光客が押し寄せる気候の良い時期(ハイシーズン)、観光客相手の商売をしている人々は、かなり強気な商売をします。ハイシーズンとオフシーズンの差が激しい観光地では、ハイシーズンの数ヶ月間に年収の8~9割を得なくてはならないですからね。
 オフにはオフの魅力があります。観光客の姿がなくなった町は、本来の姿をとり戻り、現地民だけの世界になります。それに、人々は季節外れの観光客に優しく接してくれることでしょう。 「お前さん、変な時期に来たもんだねぇ。寒かろうに。ちょっと家の中で暖まっていきなさいな。」って・・・ならないかな?
 そりゃぁ、ハイシーズンが良いでしょう、だからハイシーズン=ベストシーズンなんです。でもね?オフシーズンがワーストシーズンかというと、そういうわけではない。その土地に暮らしている人々にとっては、毎年巡ってくる季節のひとつなんですよ。中央アジアの乾燥地域で言うと、酷暑の真夏と極寒の真冬はオフとなるでしょう。でも、地元の人は暑さと寒さを当然のこととして、50年なり、70年なり、100年なり生きているんですよ? 『東北の冬は寒いから、冬場は沖縄で過ごす。』なんて、金持ち日本人的なオプションはありません。旅が生活となっている私も、巡る季節をそのままに、土地の人々と同じ感じ方をしたいんです。

 12月末~1月中旬を過ごす予定のキルギスは、天山山脈北側の山岳地帯にある小さな山国。山間の町・村の最低気温は、氷点下20℃以下。低地にある首都ビシュケクの最低気温は、氷点下20℃ぐらいかな。

 1月中旬~2下旬を過ごす予定のウズベキスタンは、国土の大半が乾燥帯の低地。最低気温は、氷点下15℃前後ですかね。

 大したことないでしょう? キルギスの山岳地帯は『旭川並み』、キルギスの低地とウズベキスタンは『札幌並み』と考えればわかりやすいかな。私は北海道を訪れたことありませんが、北海道人の友人は沢山います。みんな普通の人です。私みたいなMでなくとも、毎年冬を越していますよ?(笑) 私の場合、屋外で過ごす時間が長いので、暖かい“北海道の冬”と同じではありません。甘く見てると危険です。それなりに鍛われた心身のつもりですが、常に限界ラインを意識しながら、無理をせずに進むことにします。

 極寒の中央アジア・・・、きっと素敵なところに違いない★

東トルキスタンという国をご存知でしょうか? 

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写真)毛さん、あなたちょっと大き過ぎやしませんか・・・??
    (カシュガル中心部にある巨大・毛沢東像)


 東トルキスタンという国をご存知でしょうか?

 『○○スタン』ってことは、中央アジアの国?
 『東トルキ』って・・・、トルコの東にあるの??


 さぁ、世界地図張を広げてみましょう!! 東アジアを見て・・・・、ない! 中央アジアを見ても・・・、ない! 中東を見ても・・・、ない! ちょっと頭を捻って、ロシア連邦中部シベリアの小さな自治共和国が並んでいるところを見ても・・・、ない!!!

 東トルキスタン、こんな国の名前は存在しません。

 どういうことかと言いますと・・・、『中国・新疆ウイグル自治区』、これが『東トルキスタン』なんです。ますます訳が解らなくなりましたか??

 1997年2月に、新疆ウイグル自治区の西部の6都市で、合計600人の死傷者を出す大きな暴動があったことはご存知でしょうか? 97年っていうと、つい10年前です。私はすでに旅三昧の青春を送っていましたが、お隣の国のこんなニュースは知りませんでした。中国の内政問題って、海外のニュースでは流れにくいところがありますからね・・・。
 このような暴動は、少なくとも半世紀前から時折発生しています。地元のウイグル人を中心としたムスリム住人によって起こされる、この暴動。スローガンとして必ず掲げられるのが、『漢民族の排除』と『東トルキスタンの独立』です。もうお解かりでしょうか? 中国の新疆ウイグル自治区と呼ばれる土地は、チベット自治区と同じ経緯を辿っているのです。

 中国政府は、「古来より、新疆は中華世界と不可分の関係にあり、これからもそうである。」と主張し続けています。古来よりって・・・?いつから?? 歴史を紐解いてみますと・・・ 歴代の中華王朝による、ウイグルの統治とは、現地の支配者に対する間接統治でした。事実、中華世界の中国人たちも、伝統的に、玉門関以西の土地を『胡地』、つまり、胡人(イラン系民族)の土地と読んでいました。実際には、イラン系ではなく、トゥルク系ですが、要は『異民族の土地』とでも解釈しましょうか。
 そんな他人様の土地を『自分の土地』にしちゃったのは、清朝の時代。1864年に起きた元コーカンド・ハーン国の軍人ヤクブ・ベクが起こした反乱がきっかけです。これまで間接的でも統治者のつもりだったのに、このヤクブ・ベクによって10年間も西域の諸オアシス都市を支配された為、直接統治に切り替えることになった訳です。反乱を鎮圧した後、この新しく直接統治する事になった土地を『新疆』と名づけました。新疆とは、漢語で『新しい領土』を意味します。現在の名は、新疆ウイグル自治区。

 1930年代になると、民族主義者たちによって、『東トルキスタン』の独立が叫ばれるようになりました。トルキスタンとは、『トゥルクの土地』を意味し、中央アジアのほぼ全域、トゥルク系民族の土地をさす言葉。『東トルキスタン』とは、その東側の領域。つまり、タリム盆地を中心としたウイグル人が暮らす土地です。このような分離独立運動や暴動は、その都度、中国中央政府によって潰され、現在までに20万人以上の亡命者を生み出しています。

 2000年末、私はパキスタンのラワール・ピンディという町で、亡命ウイグル人コミュニティーの人々と接する機会がありました。出会った場所は、ウイグル料理を出す食堂です。なぜパキスタンにウイグル人がいるのか?理由は薄々感づいていましたが、好奇心から聞いてしまいました・・・、「お国はどちらですか?」 返事は、「東トルキスタンだよ。今は、中国に支配されてるけどね。」と・・・。私が話をした30代のウイグル人男性は、10年ほど前に亡命した来たそうで、隣に座っていた老人は、30年前だそうです。
 亡命してきた理由は、想像に難くありません。信仰が保てない。教育が足りない。漢民族に仕事を奪われた。政治犯として捕まると死刑か重刑。などなど、などなど。チベットの亡命者たちと、同様です。

 私が中国政府批判をしても仕方がありませんが、このような現実もあるということを知って欲しいのです。今の新疆ウイグル自治区を見てみると、『西部大開発』の大号令の元、飛躍的な開発が進んでいます。この開発とは、中国人の為の開発。町は、中国(漢民族世界)の都市と同様に整備され、雇用を求め、漢民族の移入は止まりません・・・。全くもって、チベットの現状と同じです。
 このような現実に、ウイグルの人々が、焦りと怒りを覚えていることは確実です。しかし、今の中国には、その不満や怒りをもみ消してしまうだけのパワーと勢いがあります。カシュガルで出会ったウイグル人青年は、「漢民族は大嫌い。でも、中国なしでは、俺たちは食っていけない。」と言っていました。確かにそうでしょう・・・。

 『東トルキスタンの独立』は、この先もずっと達成されることはないでしょう・・・、残念ながら。彼らは、今後も漢民族化の波に晒されながら、その波に上手く乗っていかねばならないのです・・・。願わくば、ウイグルの独自性が失われることなく、中国の発展の恩恵にあずかれますよう・・・。

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